今井町と自治

今井は昔、興福寺の寺領であったが[至徳3年(1386年)興福寺一乗院文書]、中世、永禄年間(1560年代)に突如として現在の今井町が生まれた。
それは今西家の先祖河合権兵衛清長(後改め5代目今西正冬)が十市遠勝ら一族郎党と共に今井へ亡命した時期である。

町の周囲に堀をうがち、白く厚い壁で町を覆って自衛し、一向宗と結んで時の権力者織田信長と戦った時期に合致する。
信長によって武装は解除されたものの自治権を残して、それまでにも深い関係にあった海の堺と同じく陸の今井として栄えた。

江戸時代になって、今西與次兵衛、今井兵部房が治め、高度な自治を展開したので、徳川幕府は今井を町として認め、江戸、大阪、京都、奈良と同様に、惣年寄、町年寄をおき町制にあたらせた。
今井町に惣年寄制がしかれたのは元和7年(1621年)で尾崎源兵衛(おざきげんべえ)を新たに加え、次いで寛永16年(1639年)に上田忠右衛門(うえだちゅうえもん)を加え た。
延宝7年(1679年)になると、天領に組み入れられ今井氏が仏門に専念し、三惣年寄制となった。

海の堺 陸の今井/茶の湯コネクション

コムーネはラテン語でcommune(共有財産、共同体)や communis(共有)という語源で、情報を相手と共有して伝えるのがcomunication(コミュニケーション)であり、社会を人々と共有する共同体がcomunity(コミュニティー)という英語になりました。

中世以降のイタリアは、統一国家ではなかったので、Comune(コムーネ)と呼ばれる共同体が点在しており、この自治都市共同体が都市同盟の絆を強めていきました。
代表的都市としては、ベネチア・ジェノバ・ピサなどがあげられ、12世紀頃までには,ロンバルディアのクレモナ・ベネトのパドバ・トスカナのフィレンツェ・シエナなどの内陸諸都市に多数出現し、ルネサンスの華を咲かせます。

わが国においても、「陸の今井」と「海の堺」が竹之内街道(たけのうちかいどう)を通じて、物流を連動させイタリアの都市同盟に似た絆を築き、海を渡って東南アジア諸国と交易して黄金の日々を謳歌しました。
 16世紀、堺と今井にかかわりが深い会合衆・町衆たち「天下三宗匠(てんかさんそうしょう)千利休、津田宗及、今井宗久)」らは、権力者の建物ではなく民家に彼らの道統の原形が在るととらえ、それを研ぎ澄まして茶室という結晶体にまで高めました。
そして、一期一会の草庵で再び戻らぬこの瞬間を主客一体(しゅかくいったい)になって共にお互いをおもんばかって過ごし、一座建立(いちざこんりゅう)して創りあげていくことこそ、
虚勢、権勢という衣とヒエラルキーを脱ぎ、"胎内”といもいうべき茶室の戸口に入って同じ目線同じ時の流れを茶事の儀式(作法)をもって風雅を愛で共に感じ合う。
それは、大広間の書院の台子では出来得ず、日頃の暮らしと生活の日常が充満した町なかにおいて、山なかの庵をむすぶことに、宇宙の根源そのものを体現し得ると考えたのではないでしょうか。
そこには、飾りはなく、何物にもとらわれず、固執しない境地そのものが存在し、真理をしかしめたのかもしれません。
以心伝心、見性成仏(いしんでんしん けんしょうじょうぶつ)」。
弁ずるは黙するにしかず、すべて道や物の究極の本質については、ことばも沈黙も、その真相を伝えられない!
ことばは伝えるための道具であって、伝わった途端に役目を終える。
 自分の心の内にある仏ないし自然を、呪縛束縛を解き放ちどのような道を通って自覚するか、というところにあり、その方法のひとつを発見した茶人たちが作為を弄せず、素朴な真理を理解できたからこそ、敬意をあらわして信長や権力者も純粋に刀を刀掛(かたなかけ) に置き、にじり口を通ってその空間にはいりました。