称念寺/今井兵部

今井郷と稱念寺


近江源氏の一族、永田刑部大夫高長の子河瀬太郎大夫高光の一子が幼くして父母に先立たれて山門に入り僧となったが、後に還俗して、 河瀬新左衛門氏兼と名乗り大和に十市氏と河合氏を(たの)んだので、これを剃髪(ていはつ)させて大坂に伴い、 石山本願寺顕如上人光佐の門流に属させて河瀬入道兵部房とし、 新しく今井郷に道場(後の稱念寺)を営立して住職とした。稱念寺は今西家が介立した今井郷の壇那寺である。

稱念寺修復


稱念寺釣鐘拓本屏風(6代目今西正次、正長兄弟寄贈)
稱念寺釣鐘拓本屏風(6代目今西正次、正長兄弟寄贈)

写真は(寛永十三)1637年、6代目今西與次兵衞正次と弟の今西長兵衞正長が亡き父正冬(河合権兵衛清長)三回忌法要の供養として稱念寺へ寄贈した釣鐘の拓本で、太平洋戦争の金属類回収令による供出前に拓本を採ったものある。
その後(昭和四十二)1967年、17代目今西啓師によって新たに釣鐘を新鋳し、再び寄贈することが叶った。

また、(弘化二)1845年再建の稱念寺太鼓楼を財団法人今西家保存会稱念寺太鼓楼修復積立金と橿原市の補助金によって、(平成八)1996年7月27日に竣工した。

稱念寺は創建以来、今西家の一家建立であったので、檀家積み立てが無く、補修や修復の費用が覚束無くなっていた。特に、痛みがひどく瓦や塀の倒壊の恐れがあり、周囲の住民の安全確保も考慮して稱念寺本堂の解体修理事業を遂行するために、当財団今西啓師理事長が壇家一同と墓地の移設や本堂修理について話し合いを重ねた。壇家一同より一任を受けて、当財団役員である元環境事務次官の船後正道氏や東京大学渡邉定夫名誉教授らと苦慮を重ね、苦心の末ようやく、寺院として建立年代が新しい稱念寺本堂が国の重要文化財の指定を受けるに至った。

(平成二十二)2010年4月から稱念寺の解体修理に入り、(平成三十一)2019年12月に完成予定となっている。

河瀬兵部尉宗綱・今井兵部卿豊寿/河瀬兵部丞富綱・今井兵部卿鶴寿


(明智光秀書状)端書無之  當在所事、去年任被仰出旨、土居構崩之、國次准土民由、尤神妙候、其段弥於無相違者、重而違乱族不可有之候、陣取等堅可令停止、宗及別而断之条、自今以後不可有疎意候、猶□□□藤田傳五□□□恐々謹言、 天正□九月廿七日  惟任光秀(花押)  「 (加筆) 河瀬兵部房殿」 今井郷惣中
(明智光秀書状)端書無之  當在所事、去年任被仰出旨、土居構崩之、國次准土民由、尤神妙候、其段弥於無相違者、重而違乱族不可有之候、陣取等堅可令停止、宗及別而断之条、自今以後不可有疎意候、猶□□□藤田傳五□□□恐々謹言、 天正□九月廿七日  惟任光秀(花押)  「 (加筆) 河瀬兵部房殿」 今井郷惣中

「今井町史」編集者のひとり歴史学者の関西学院大学故永島福太郎名誉教授によると、「称念寺を創建したとされる河瀬兵部丞富綱かわせひょうぶのじょうとみつなが、織田信長に仕えて三千石を領したというのは、信長から攻撃をうけて降参した者であり、なお本願寺が信長には最強敵だったのであるから、降参して直ちに忠勤を誓ったという関係でないゆえ、その家臣としてかなり優遇である三千石を領するということは考えられない。今井氏系図から信長時代の今井兵部は直感的には説けない。今井兵部の処遇については、大和軍記やまとぐんきや称念寺今井氏系図のたぐいにしか記述されたものはない。信長の赦免状は江戸時代中期に称念寺今井氏のもとにない。というのは、明智光秀の書状において、宛名に河瀬兵部丞殿とあるのは、そのころ書き入れたもので、元は今井郷惣中いまいごうそうちゅうとしかなかったものである。そのとき今井氏が書状類を所持していたとすれば、あえて書きこむ必要はない。

本願寺一家衆ほんがんじいっけしゅう今井兵部卿豊寿いまいひょうぶきょうとよひさは、天文末年には今井にありその坊も構えていた。これに対して興福寺や附近の武士はなんら妨害をしなかったのは不思議である。
しかし越智氏といい、このころは流寓的りゅうぐうてき境遇にあったし、筒井氏は幼児の順慶が松永久秀に追われ山中に逃避していた。十市氏は本願寺に参列するような武士であり、特に大和をほぼ支配するに至った松永久秀は、本願寺と結んだ大名である。
このような状況に加えて、興福寺では、その上層部は同じ貴族社会の者とで交際もしているし、本願寺に頼って北国の所領からの年貢を確実に得ることにしていたほどである。それゆえ興福寺でいつも一向宗弾圧をくわだてる六方衆ろっぽうしゅうのみが、今井兵部をにらんでいたに過ぎない。
また、今井兵部が信長との今井の抗戦と降伏の前後のおいて、その活動が確実な史料に全く見えないことから、いってみれば天正抗戦の際と天正再興の間において、今井兵部は存在しなかったとの事である。しかも今井郷赦免に際し、今井兵部の動静が明徴めいちょうを欠くことは、今井兵部はすでに今井に居らなくなっていたと言えよう。
(永禄十一)1568年前後において今井兵部卿豊寿は今井をすでに退去しており、その後、今井道場を中心とする今井郷民の団結によって守られてきた。
ところで、本願寺はなお信長に抗戦したため、その手足ともいうべき吉野両寺が(天正六)1578年冬に信長の命をうけた筒井順慶のために焼掠しょうりゃくされた。かくて(天正八)1580年8月に至って本願寺は、ついに信長と講和し、大坂を退去した。大和では信長の命で郡山城を除き国中の諸城破却しょじょうはきゃくが令せられたのについで、社寺貴族および武士の大和における領地の書き上げを命ぜられている。このとき今井兵部がその所領目録しょりょうもくろくを提出したとも見えない。今井兵部の存在からすれば、今井郷がその所領とされるべきものであった。

豊臣秀吉の代になり、(天正十)1582年ごろ河瀬兵部丞を今井兵部房いまいひょうぶのぼうに改めたというが、すでに数十年の昔に今井には今井兵部が居った。昔の今井兵部は本願寺一門として今井にあったが、改めて河瀬宗綱かわせむねつな・富綱父子をここに入れたことになる。本願寺の今井兵部の寺をおこしたことになろう。とすれば、河瀬宗綱・富綱父子の今井兵部はその時に始まるべきものである。
(天正十四)1586年4月に顕如上人は十津川の温泉に湯治に行くが、そのとき顕如上人は和泉貝塚から今井に入り、今井で中一日とう留して、下市へ向かっている。すでに今井御坊は再興されたのである。本願寺門主の血縁者か今井宗久の縁者が今井に送られてきて今井兵部の名跡を引き継ぎ、今井兵部卿鶴寿いまいひょうぶきょうつるひさと名乗ったとするのが自然である。」と史実である明智光秀今井郷惣中宛書状および織田信長今井郷惣中宛赦免状と江戸時代に横行した説話的な題材や虚構も交えられた軍記物の偽書や乱れた系図などをひとくくりにして混同することに、整合的真が得られていない矛盾を指摘されている。