今井郷と称念寺

近江源氏の一族、永田刑部大夫高長の子河瀬太郎大夫高光の一子が幼くして父母に先立たれて山門に入り僧となったが、後に還俗して、 河瀬新左衛門氏兼と名乗り大和に十市氏と河合氏を恃(たの)んだので、これを剃髪(ていはつ)させて大坂に伴い、 石山本願寺顕如上人光佐の門流に属させて河瀬入道兵部房とし、 新しく今井郷に道場(後の稱念寺)を営立して住職とした。稱念寺は今西家が介立した今井郷の壇那寺である。

稱念寺
今井山 稱念寺

河瀬兵部尉宗綱・今井兵部卿豊寿/河瀬兵部丞富綱・今井兵部卿鶴寿

「今井町史」編集者のひとり歴史学者の関西学院大学故永島福太郎名誉教授によると、「称念寺を創建したとされる河瀬兵部丞富綱(かわせひょうぶのじょうとみつな)が、織田信長に仕えて三千石を領したというのは、信長から攻撃をうけて降参した者であり、なお本願寺が信長には最強敵だったのであるから、降参して直ちに忠勤を誓ったという関係でないゆえ、その家臣としてかなり優遇である三千石を領するということは考えられない。今井氏系図から信長時代の今井兵部は直感的には説けない。今井兵部の処遇については、大和軍記(やまとぐんき)や称念寺今井氏系図のたぐいにしか記述されたものはない。信長の赦免状は江戸時代中期に称念寺今井氏の(もと)にない。というのは、明智光秀の書状において、宛名に河瀬兵部丞殿とあるのは、そのころ書き入れたもので、元は今井郷惣中(いまいごうそうちゅう)としかなかったものである。そのとき今井氏が書状類を所持していたとすれば、あえて書きこむ必要はない。

本願寺一家衆(ほんがんじいっけしゅう)今井兵部卿豊寿(いまいひょうぶきょうとよひさ)は、天文末年には今井にありその坊も構えていた。これに対して興福寺や附近の武士はなんら妨害をしなかったのは不思議である。
しかし越智氏といい、このころは流寓的(りゅうぐうてき)境遇にあったし、筒井氏は幼児の順慶が松永久秀に追われ山中に逃避していた。十市氏は本願寺に参列するような武士であり、特に大和をほぼ支配するに至った松永久秀は、本願寺と結んだ大名である。
このような状況に加えて、興福寺では、その上層部は同じ貴族社会の者とで交際もしているし、本願寺に頼って北国の所領からの年貢を確実に得ることにしていたほどである。それゆえ興福寺でいつも一向宗弾圧をくわだてる六方衆(ろっぽうしゅう)のみが、今井兵部を(にら)んでいたに過ぎない。
また、今井兵部が信長との今井の抗戦と降伏の前後のおいて、その活動が確実な史料に全く見えないことから、いってみれば天正抗戦の際と天正再興の間において、今井兵部は存在しなかったとの事である。しかも今井郷赦免に際し、今井兵部の動静が明徴(めいちょう)を欠くことは、今井兵部はすでに今井に居らなくなっていたと言えよう。
永禄11年(1568年)前後において今井兵部卿豊寿は今井をすでに退去しており、その後、今井道場を中心とする今井郷民の団結によって守られてきた。
ところで、本願寺はなお信長に抗戦したため、その手足ともいうべき吉野両寺が天正6年(1578年)冬に信長の命をうけた筒井順慶のために焼掠(しょうりゃく)された。かくて天正8年(1580年)8月に至って本願寺は、ついに信長と講和し、大坂を退去した。大和では信長の命で郡山城を除き国中の諸城破却(しょじょうはきゃく)が令せられたのについで、社寺貴族および武士の大和における領地の書き上げを命ぜられている。このとき今井兵部がその所領目録(しょりょうもくろく)を提出したとも見えない。今井兵部の存在からすれば、今井郷がその所領とされるべきものであった。

豊臣秀吉の代になり、天正10年(1582年)ごろ河瀬兵部丞を今井兵部房(いまいひょうぶのぼう)に改めたというが、すでに数十年の昔に今井には今井兵部が居った。昔の今井兵部は本願寺一門として今井にあったが、改めて河瀬宗綱(かわせむねつな)・富綱父子をここに入れたことになる。本願寺の今井兵部の寺をおこしたことになろう。とすれば、河瀬宗綱・富綱父子の今井兵部はその時に始まるべきものである。天正14年(1586年)4月に顕如上人は十津川の温泉に湯治に行くが、そのとき顕如上人は和泉貝塚から今井に入り、今井で中一日とう留して、下市へ向かっている。すでに今井御坊は再興されたのである。本願寺門主の血縁者か今井宗久の縁者が今井に送られてきて今井兵部の名跡を引き継ぎ、今井兵部卿鶴寿(いまいひょうぶきょうつるひさ)と名乗ったとするのが自然である。」と史実である織田信長今井郷中宛赦免状と説話的な題材や虚構も交えられている軍記物とをひとくくりにして混同することに、整合的真が得られていない矛盾を指摘されている。