柳生石舟斎宗厳/十市遠長

今西家の先祖である十市氏は、柳生氏と縁が深く、南北朝期には、共に南朝方として戦っています。
そのゆかりから代々、今西家は、柳生新陰流剣術兵法の秘伝を皆伝してきました。
新陰流の極意は、力を鼓舞する殺人剣と違って、活人剣といって「敵の状況によって柔軟に対応して、相手の力を利用して処理する剣術である。」まさに、武装都市ではなく、自衛環濠都市「今井町」ににています。柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)は、1544年に筒井順昭率いる一万の軍勢を柳生城下に迎えて合戦に及び、落城の憂き目にあいました。
戦国期には松永久秀に属し、共に十市方武士団の一員として戦っています。
 ・辰市合戦(たついちがっせん)以後の松永氏の没落にともなって勢力を失い、筒井順慶と敵対関係にあった縁のあった十市遠長(とをちとおなが)と結ぶなど独立体制を保った(多聞院日記)。
太閤検地によって隠田の罪で 2,000石の所領を没収されるなど、次第に落ちぶれていきました。
 しかし、宗厳が上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)の指導を仰いで剣術の研鑽に励み、新陰流を継承するに至った。

黒田長政
の仲介により、京都鷹が峰で徳川家康に招かれ家康本人を相手にして「無刀取り」を示し、剣術指南役として出仕を請われたが、宗厳は66歳の老齢を理由に辞退し、代わりに五男・宗矩を推挙しました。
その後、将軍秀忠家光の指南役となり、大監察に昇進した後、加増により万石に列し、柳生藩として大名にまでのぼりつめました。