信長軍への今井郷抗戦

本願寺と一線を画した今井町の歴史的転換期

石山本願寺 大坂城 大阪城
石山本願寺

(天文二)1533年今井・四条辺りで一向宗門徒が小屋を建てようとしたが、興福寺国民の越智氏によって取り壊された。その後、天文年間(1550年代)に本願寺一家衆が一向宗道場を建てた。

(永禄九)1566年二月、今西家の先祖河合権兵衛清長(後改め5代目今西正冬)が十市遠勝ら一族郎党と共に今井へ亡命し、環濠を強固にめぐらして環濠城塞都市化して整備した。

(天正三)1575年、一向宗と結んで信長包囲網に呼応して、織田信長と戦った。信長によって武装は解除されたものの朱印状により大坂と同様に自治権を認められ、本願寺とは一線を画した。それまでにも深い関係にあった海の堺と同じく陸の今井として共に自治都市として栄えた。

 

浪速(なにわ・なみはや)は波が荒く、大坂、摂津地方で唯一この「石山」と呼ばれる上町台地が高台であった。この石山は戦国の世を平定するために地政的に重要な場所であったから、織田信長は11年間も戦いを継続した。
城主ひとりを守る城下町づくりでなく、環濠内の郷民を守る町づくりの違いから難攻不落であったが、1578年ついに、信長が苦心して考案した鉄艦隊7隻を率いた信長九鬼水軍が再び大坂湾で毛利村上水軍と激突して圧倒した。
石山本願寺は、朝廷による和解斡旋を受け入れて、この地を信長へ明け渡した。本能寺の変で主君の信長が討たれると、この地の利を理解していた豊臣秀吉が大坂城を築城して天下に号令をかけた。