十市遠忠・遠勝/多聞院英俊

十市兵部少輔中原遠忠公直筆
十市兵部少輔中原遠忠公直筆

先祖の戦国武将歌人といわれた十市遠忠(とをちとおただ)三条西実隆(さんじょうにしさねたか)ら公家とも頻繁に交際し、和歌、連歌、書をたしなみ文化人としても名を馳せ、茶道にも通じ能阿弥の影響を受けた書院台子(しょいんだいす)の茶儀を重んじ、庭園は当代一と言われた善阿弥(ぜんあみ)を取り入れ、 龍王山城北城付近で自然石を組み合わせた枯山水の庭園遺構も見つかっています。嫡男の十市遠勝(とをちとおかつ)松永久秀(まつながひさひで)を城に招き茶をもてなして文化人として薫陶を受けたとされます。

十市家中興の祖といわれる十市遠忠が補修した大和一の面積を誇る中世城郭・龍王山城より大和盆地から大阪湾や明石大橋までも一望できます。
奈良盆地と大和高原を隔てる青垣山の中の最高峰龍王山上に比高では大和随一で、北城と南城からなっていました。
龍王山城は、文明15年(1483年)以前に十市遠清によって築城していたとされ本拠地の十市城以外に「山ノ城」と呼ばれる居城を構えました。永正4年(1507年)に篝火が焚かれた砦の一つとして登場し、天文期に木沢長政(きざわながまさ)と筒井氏が同盟を結び、その勢力と対抗するために龍王山城を修築し、常勤して政務を執る場所となりました。 松永久秀も一時龍王山城に在城しており、永禄3年(1560年)多聞城を築くにあたり影響を受けました。また、イエズス会のルイス・デ・アルメイダも城に訪れて日本の地名の一つとして東アジア地図に紹介をし掲載されています。

十市遠忠の頃が最盛期で、嫡男十市遠勝の代になると、筒井順慶(つついじゅんけい)と松永久秀の激しい戦いに翻弄され、娘のおなえは久秀に人質として差し出され、のちに嫡男松永久通(まつながひさみち) の妻となりました。織田信長が入京し、久秀が信長の力を背景に力を取り戻して、龍王山城が十市氏の手に戻り、おなえを旗印とする河合権兵衛清長以下松永派が筒井派を抑え込みました。やがて、松永久秀が信長を裏切り、筒井順慶の巻き返しがおこり、永禄9年(1566年)十市遠勝、御内、おなえ一族郎党と共に松永派は今井の河合権兵衛居宅(現今西家住宅)へ退去しました。十市家やその一族である河合家のことが「多聞院日記」にしばしば登場し、筆者である多聞院長実房英俊(たもんいんちょうじつぼうえいしゅん)は、十市御内を心配してみやげを持参して今井へ見舞っています。英俊は、十市氏の一族として生まれ、享禄元年(1528年)11歳で興福寺妙徳院へはいり、多聞院院主となったのは天文16年(1547年)で大乗院尋円・尋憲の御同学となり、尋円と尋憲が対立した時も関係修復に奔走し、晩年一乗院尊政からも師匠として尊敬され、死後書籍が一乗院へ譲られました。多聞院主となったのは、天文16年(1547年)から天文18年(1549年)の間で、それまでの日記の舞台は妙徳院で、慶長元年(文禄5年1596年)12月13日没から慶長4年(1599年)の日記は英俊の弟子が書いたことは間違いないとされます。

・1575年7月18日 松永久通(「松永金吾」)、大和国龍王城に於いて御ナヘと祝言す。
多聞院英俊はこの祝言に否定的な見解示す。〔『多聞院日記』二〕
1575年 7月19日 多聞院英俊、松永久通と御ナへの祝言を塙直政(「原田備中守」)が延引させたことを知る。
多聞院英俊はこの処置を「尤珍重々々」と評す。〔『多聞院日記』二〕
  
衾道(ふすまぢ)を 引手(ひきて)の山に 妹(いも)を置きて 山路(やまぢ)を行けば 生けるともなし 」 (柿本人麻呂 巻2-212)

訳:衾道を、引手の山中に妻(の墓か霊魂)を残して山路を行くと、生きていく気がしない。(212)
家に戻ってきて嬬屋(つまや)を見ると、妻の使っていた木枕(こまくら)が、床の外の方に向いてころがっているのだった。(216)

説明:引手(ひきて)の山は龍王山のことで、衾道(ふすまじ)は、この近くに衾田陵(西殿塚古墳)[(6世紀前半の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓として管理されているが、3世紀末のヤマト王権の大王墓とする説が有力で、行燈山古墳に被葬されているとする崇神天皇か邪馬台国・臺与(とよ)の陵墓ではないかと推定されている)]と呼ばれている。箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命)に次ぐ古い陵墓(前方後円墳 全長220m)があることに由来します。

十市県主の一族である孝霊天皇ゆかりの纒向石塚古墳や箸墓古墳そして、竜王山麓の衾田稜(ふすまだりょう)を龍王山古墳群が守るようにとり囲むこの地で、城を築こうと決めたのは、磯城一族の誇りを賭けて余程の覚悟の上に他ならなかったでしょう。

「火の路」(松本清張)で龍王山古墳群を「死の谷」と呼ばれていましたが、神々の住む世界へ帰り、子孫たちを見守るってくださってるのでしょう。

龍王城主・十市遠忠歌碑「えにしあれや 長岳寺の法(のり)の水 むすぶ庵(いおり)も ほど近き身は」-今西家より長岳寺へ寄進
龍王城主・十市遠忠歌碑「えにしあれや 長岳寺の法(のり)の水 むすぶ庵(いおり)も ほど近き身は」-今西家より長岳寺へ寄進