徳川家康・松平忠明/十市玄蕃頭遠光・河合権兵衛改め今西正冬

徳川家康の大和・伊賀越えに協力

伊賀越え
伊賀越え(ならら2023年1月号)

wikipediaによると、徳川家康は、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の一報を堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった一行に、茶屋四郎次郎によって届けられ、長谷川秀一が案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。先ず第一に大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導いた。その後、これも秀一旧知の近江信楽の代官である多羅尾光俊(山口秀景の婿養子である山口光広の実父)の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱したとある。

伊賀越えは、飯盛山から宇治田原(京都府宇治田原町)、 信楽(滋賀県 甲賀市)、柘植と加太(三重県伊賀市)を経由して 白子(三重県鈴鹿市)に至り、家康は白子から船に乗って三河の大浜(愛知県碧南市)にたどり着いたといわれています。

 

伊賀越えについてはさまざまな記録や伝承がありますが、通説は石川忠総(1582~1651年)が書いた『石川忠総留書』の記述に従っていますが、どこから船に乗ったのかなど経路の情報が交錯している点や、最終日の6月4日に17里の強行軍であった点など、わずか34名の随従であったと説く点も、再検証の見直しの必要があると歴史学者から言われています。
『石川忠総留書』によると、

  • 堺、平野、阿部、山ノねキ、ホタニ、尊念寺、草地、宇治田原、計30里
    字治田原を出発後、山田村(宇治田原町奥山田か)へ至り、別当という出家が案内役を務めました。信楽のうち小川村を経由し、多羅尾道賀(光俊)の邸宅に宿泊されました。
  • 字治田原より2里半、山田より1里半、朝宮(甲賀市信楽町下朝宮)より2里、小川より19里
    6月4日、小川村を出発後、多羅尾勘助(光俊)が案内役を務め、丸柱村(伊賀市丸柱)まで同行しました。その後、宮田という人物が加わり、柘植(伊賀市柘植)まで送迎されました。柘植からは米地九左衛門と柘植平弥の両名が案内役を務め、加太まで同行しました。加太では野呂という人物が加わり、関の地蔵(亀山市関地蔵院)まで案内されました。関からは東海道を直進し、四日市まで至りました。四日市では水谷九左衛門(光勝)が馳走を申し上げました。その後、那古(現在の鈴鹿市長太)より船に乗りました。
  • 小川より四日市までの行程は17里です。小川より半里向山へ1里、丸柱へ1里、石川より半里、河合へ1里半、柘植へ2里、加太へ1里、関へ1里半、亀山へ2里、庄野へ1里、石薬師へ2里、四日市へ1里半、那古へ至ります。

6月2日は堺から宇治田原までの13里、6月3日は宇治田原から小川城までの6里、6月4日は小川城から那古までの17里の行程となり、堺から那古までの総行程は36里です。
このうち、伊賀国を通過するのは、近江と伊賀の国境の桜峠から伊勢国との国境の加太峠まで約5里程度です。
なお、『石川忠総留書』によれば、最終日の6月4日には17里を歩かれたとのことですが、江戸時代の大名行列は1日10里程度が限界とされていますので、17里(68km)はかなりの強行軍であったと考えられます。

軍隊の行軍は一日40kmが限度とされてます。それから考えると2日かかることになります。

豊臣秀吉の「中国大返し」は、備中高松城から山崎まで、50里(約200km)の道のりを10日で山崎まで戻りました。

 

昨今、「大和越え」説が注目されていますが、『寛永諸家系図伝』や家康書状の分析により、山城・信楽(通説)だけでなく、竹ノ内峠や高見峠を経由する大和路が用いられた可能性が強まっており、そこでの案内・警護に十市氏が関与しているといわれ、徳川家康が和田織部に出した「大和路の案内、とりわけ高見峠(三重県松阪市と奈良県東吉野村の間)での働きには感謝している」という感謝状があり、安井 久善(1925~2001)が、この書状を根拠に、「家康は大和を越えた」とする論文を発表しています。書状には家康の花押もあり、偽書ではなく、書状に家康自身が「大和路」と書いているのに、これまで忘れられていました。

 

大和を通ったことを示す史料はほかにもあり、当時大和を治めていた筒井順慶らに、家康が「このたびの大和越えでは世話になった」と礼を述べた書状もあり、『当代記』も「家康は堺で本能寺の変を聞き、大和路に来て高田の城へ立ち寄った」と記しています。

和田織部の高見峠での「働き」とは、家康を道案内したことではなく、兵を出して伊勢(現在の三重県)からの敵の侵入を食い止めたことへの感謝であり、竹ノ内峠を越えた家康は高見峠には行かず、大和八木(奈良県橿原市)あたりで北に進路を変えて宇治田原に進み、そこから通説通りに進んだのではないかとする説です。

 

もう一つの説は、『寛永諸家系図伝』によると、服部保次は家康の伊賀越えでの功で鉄砲同心五十人を預かったとあるが、伊賀者由緒文書において「大和越え」で共通し、服部保次(服部仲)が登場する。山城~信楽~伊賀という通説の前に無視され、保次も黙殺されてきた。『当代記』『創業記考異』『御年譜附尾』等、家康一族による書は大和越えを記し、石見銀山奉行に取立てられた竹村道清ら宛の家康書状からは竹ノ内峠を越え、和田織部宛家康書状からは高見峠に迂回したことが想定される。これは『譜牒余録』にある吉川家覚書と図や『御年譜附尾』と符合し、高見峠まで伊賀衆が迎えに来たというから伊賀者由緒類を補強する。また『寛政重修諸家譜』酒井重忠項の「大和路に御馬を向られ、伊賀路を経て」という記事を裏付ける。『信長公記』等は、家康は堺で本能寺の変を知ったと記すが、その場合、家康が光秀のいる京都に向かうとは思えず、『石川忠総留書』の内容に疑問符が付く。『宇野主水日記』にある「計略」とはこれを指すのか。以上から大和越えを再検証すべきであり、大和越え否定の犠牲になった服部保次にも着目すべきである。

十市備後守遠光(玄蕃允)は、桜井市大字巻野内穴師村西方に所在。中世は、備後庄(三箇院家抄)を、天正時代(一五七三―九二)を所領地としており、長谷川秀一が大和の十市玄蕃允へ手紙を出して護衛を出させたとあり、十市県主の一族出身で古代よりの出雲族のサンガのネットワークと初瀬川流域を本拠地として結束された武士団の長谷川党の地縁組織が築かれており、国譲り以降に表舞台から離れて山々で細々と暮らすちえの積み重ねが忍びの術となり、忍者の起源になりました。

けものみちにいたるまで詳しい者たちによって、敢えて危険な明智光秀のいる京都へ向かわず大和から初瀬街道をゆき伊賀を越えて伊勢白子から脱出し得ることが可能であった説が最も現実的であったといえる。

その説を裏付けるように、その地の利と地政学的根拠から、豊臣秀吉の代になり、天正12(1584)年筒井順慶没の翌年に筒井定次、伊賀城へ転封せられ豊臣秀長郡山入城する。江戸時代になり、幕命により筒井定次が改易され、重要拠点である大和、伊賀に藤堂高虎を赴任させている。

徳川家康も腹心側近ともいえる高虎に伊賀を与えたことは、大坂方を刺激することなく、しかも確実に徳川方勢力を上方方面に食い込ませる家康の戦略によるものであった。

高虎の伊賀街道などの整備と築城は大坂城の豊臣秀頼と西国の豊臣恩顧大名に対する包囲網を築くためとしている。また、高虎の伊勢転封と筒井定次の改易、脇坂安治の淡路洲本藩から伊予大洲藩への転封もこの政策の一環としている。

 
※ 和田織部宛家康書状

『寛永諸家系図伝』によると、服部保次、通称「中」の生国は伊賀で、家康の伊賀越えでの功で鉄砲同心五十人を預かったとあるが、服部半蔵に比して無名である。多くの伊賀者由緒文書は大和越えで共通し、保次と思しき「服部仲」が登場するが、山城~信楽~伊賀という通説の前に無視され、保次も黙殺されてきた。『当代記』『創業記考異』『御年譜附尾』等、家康一族による書は大和越えを記し、石見銀山奉行に取立てられた竹村道清ら宛の家康書状からは竹内峠を越え、和田織部宛家康書状からは高見峠に迂回したことが想定される。これは『譜牒余録』にある吉川家覚書と図や『御年譜附尾』と符合し、高見峠まで伊賀衆が迎えに来たというから伊賀者由緒類を補強する。また『寛政重修諸家譜』酒井重忠項の「大和路に御馬を向られ、伊賀路を経て」という記事を裏付ける。『信長公記』等は、家康は堺で本能寺の変を知ったと記すが、その場合、家康が光秀のいる京都に向かうとは思えず、『石川忠総留書』の内容に疑問符が付く。『宇野主水日記』にある「計略」とはこれを指すのか。以上から大和越えを再検証すべきであり、大和越え否定の犠牲になった服部保次にも着目すべきである。(三重大学人文学部人文社会科学科)

 

※ 初瀬街道
京・大和方面と伊勢を結ぶ初瀬街道は、古代には大海人皇子が名張に至った道であり、倭姫命が伊勢へと巡礼した道でもある。また、松尾芭蕉も国見山兼好塚を訪ねる際など、奈良・吉野方面への往来に初瀬街道をよく利用したといわれている。 


※ 主要参考文献

『異聞 本能寺の変 「乙夜之書物」が記す光秀の乱 史料で読む戦国史4』(2022、八木書店出版部) 上島秀友『本能寺の変 神君伊賀越えの真相―家康は大和を越えた』(2021、奈良新聞社) 平野明夫「神君伊賀越えの真相」(渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』2016、柏書房)『明宿集』金春禅竹

「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」『明宿集』金春禅竹

 

十市トホイチ 耳成村大字十市に十市森あり、謂ゆる御県神此なり。中世十市氏和州の豪族にして南朝に属し足利氏に抗す、平城坊目遺考に「十市氏中原姓、或曰県主、長谷川党なり、十市山の城に住し春日大宿所隔年勤番」とありて、城址は弓月岳《ユヅキタケ》と云へり。長谷川党は大和の国衆・十市氏を刀禰とする武士団であり、薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある。また、河勝は猿楽の祖でもあり、能楽の観阿弥・世阿弥親子も河勝の子孫を称した。現在、楽家として知られる東儀家は河勝の子孫であるといわれている。

十市玄蕃頭遠光
十市玄蕃頭遠光
十市玄蕃頭遠光
十市玄蕃頭遠光

今井西辺にて豊臣方 大野治房 撃破

慶長二十年(1615)4月26日、豊臣方の大野治房は後藤基次と二千の兵を率いて大和国へ出陣した。徳川方が河内方面に在陣したことを受け、奈良から迂回して襲撃を試みたと考えられる。治房は大和国へ侵攻すると、徳川方の筒井定慶(正次)が籠もる郡山城(奈良県大和郡山市)を攻撃し、定慶は1千人の兵で籠城していたが、寡兵で抗しきれず城を退去し、5月3日に自害した。享年27歳。その後、龍田(奈良県三郷町)、法隆寺の堂宇がことごとく焼き払われるなど、被害が甚大だったが、今井の西長二十年(1615)4月26日、豊臣方の大野治房は後藤基次と二千の兵を率いて大和国へ出陣した。徳川方が河内方面に在陣したことを受け、奈良から迂回して襲撃を試みたと考えられる。治房は大和国へ侵攻すると、徳川方の筒井定慶(正次)が籠もる郡山城(奈良県大和郡山市)を攻撃し、定慶は1千人の兵で籠城していたが、寡兵で抗しきれず城を退去し、5月3日に自害した。享年27歳。その後、龍田(奈良県三郷町)、法隆寺の堂宇がことごとく焼き払われるなど、被害が甚大だったが、今井西辺においても、大坂方の大野治房おおのはるふさ麾下の箸尾重春、布施春行、萬歳友次、細井武春らが郡山城下や百済寺付近に火を放ち今井郷へ押し寄せ激戦があったが河合清長(川井長左衛門正冬)以下鉄砲隊の活躍により町は無傷のまま残った。(『駿府記』)。

4月27日に奈良を目指したが、戦うことなく後退し、ついに郡山城まで撤退し、周囲に火を放ちながら大坂へと撤退したのである(『大坂陣日記』など)。

4月28日、治房は今井と同じく自治都市の堺に入り、徳川方に与したという理由で焼き払った。住吉大社(大阪市住吉区)などにも放火した。

堺は自分たちが豊臣方に与したことを家康に知られるのを恐れ、今井宗薫と堺政所(奉行)の芝山正親の画策によって徳川方の兵を堺に引き入れたことを秀頼に知られて、結果的に大野治房に堺は焼き払われたことになった。(『日本切支丹宗門史』)

(元和七)1621年11月、徳川家康の外孫で郡山城主松平忠明が当家へ赴き饗宴を催し杯を酌み交わし、河合権兵衛改め川井長左衛門正冬は、大坂夏の陣の際に今井の西辺において大野治房らを撃破した義勇と今井を繁盛させ営立させた功績をたたえられ、今井の西を守ったことから今西を名乗るように薦められて今西與次兵衛正冬と改め、徳川家康公からことづけられたという薙刀来国俊など賞物を多数拝領しました。
戦乱の中、大和四家の筒井氏、越智氏、箸尾氏の血脈が露と消える中、十市県主氏の誇りを胸に刻み、河合権兵衛清長は十市遠勝と共に亡命し十市家中の十市後室らを今井に匿い、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑と接し、或る時は死を恐れず真っ向から戦い、或る時には今井町の平和を願って折衝に当たりいくさを治め乱世を対応してきました。河合権兵衛改め今西正冬が行ってきた数々の徳の恩恵に授かって、今西家の子孫は今もなお今井町で暮らし続けていけていると感謝しています。

徳川家康公下賜 「来国俊 薙刀」
徳川家康公下賜 「来国俊 薙刀」
徳川家康 下賜 薙刀 来国俊
徳川家康公 下賜 来国俊薙刀中央
徳川家康 今井郷 禁制
今井郷禁制 徳川家康