伝統行事

六礼
次世代への幸福の願いを込めて陣幕を心を込めて張りました。 磯城彦の時代から連綿と受け継いできた十市県主今西家を若い世代の息吹きで盛り立てていって地下にしっかり根ざし太い幹に育ててくれる事と願っております。

今西家 正月
今西家は戦国時代からお正月の三が日は神棚、仏前に一日2回お参りするのが慣習になっています。 神棚には、神饌として米・酒・塩・水の他に鏡餅、お雑煮をお供えし、榊の代わりに松竹梅を飾り付けします。 仏前には、御仏飯の代わりにお雑煮をお供えし、お花は松竹梅を飾り付けします。 夕方には、炊きたての御飯をお供えします。 そして、三が日の最後の御飯をお供えして、早々と鏡開きをします。 今西家は自治権を幕府から委ねられ役所と裁判所、警察署を兼ねていましたので1月4日から仕事始めになっていたからです。 永禄9年(1566年)、十市から今井に移住して以来今も古来の仕来りを連綿と守っております。 神仏の御加護そしてご先祖のお蔭で、今井へ移り住んで455回目の正月を迎える事が出来ました。 感謝

春日若宮おん祭は毎年7月1日の流鏑馬定(やぶさめさだめ)によって始まり、その年の流鏑馬頭(願主人)を定める儀式で、大和士(やまとざむらい)といわれる衆徒国人たちが交代で願主人を務めた。 おん祭りがはじめられた当初から、大和士によって流鏑馬十騎が奉納されてきた。大和士とは、十市氏を首領とする長谷川党(式下・式上郡)、箸尾氏を首領とする長川党(葛下・広瀬郡)、筒井氏を首領とする戌亥脇党(添下・平群郡)、楢原氏を中心とした南党(葛上郡)、越智氏を中心とした散在党(高市郡)、平田党の六党をいう。 しばしば、流鏑馬の順番をめぐって筒井氏と十市氏が刃傷沙汰(にんじょうざた)をおこし、興福寺別当が頭を悩ましたようであるが、争いを避ける方法として稚児を流鏑馬に登用して、武士のメンツを立てて解決したのである。

「七夕(たなばた)」の語源は『古事記』の中で葦原中国(あしはらのなかつくに) を平定する中で、アメノワカヒコが亡くなって弔いにアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた「天なるや 弟棚機(おとたなばた)の 項(うな)がせる 玉の御統(みすまる)御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高日子根の神ぞ(訳:見たまえや、ひとびと。かの天上にて、機(はた)織る乙女の、うなじに懸(か)けし珠(たま)かざり。その緒に貫いた珠かざりの、穴玉うつくしく照るように、谷二つかけわたして、照りはえる神のすがたは、これぞわが兄の神。)」の弟棚機にあるとする。 また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡といい、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕にまつわる歌が存在する。

古来、日本には五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)があり、それぞれ季節の節目の身のけがれを祓う大切な行事でした。 節句は季節の節目に、無病息災、豊作、子孫繁栄などを願い、お供え物をしたり、邪気を祓う行事で「節供」ともいいます。 江戸幕府は、一年のうちで特に重要な節目として、五節句を式日に定めていましたが、この制度は明治6年に廃止されています。 現在は、季節を楽しむ行事として定着しています。 上巳陰暦3月3日は、「桃の節句」です。 本日から陰暦の3月3日まで、先祖が引き継いできたおひな様を飾り付けします。