古代

磐余邑(いわれ)と鵄邑(とび)
磐余の地の元の名は片居(かたい)。亦は片立(かたたち)という。我が皇軍の虜(あた)を破るに逮りて、大軍集いて其の所に満(いわ)めり。因りて改めて號けて磐余(いわれ)とす。或の曰はく、「天皇往嚴瓮(いつへ)の粮(おもの)を嘗(たてまつ)りたまひて、軍を出して西を征ちたまふ。この時に、磯城の八十臬帥、彼處に屯聚(いは)み居たり。果して天皇と大きに戦ふ。遂に皇軍の爲に滅される。故、名けて磐余邑と曰ふ」といふ。 「畝傍の橿原に、宮柱底盤の根に太立て、高天原に搏風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、號けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す。(『日本書紀』巻第三神武天皇 即位前紀) 「磐余の邑」は、奈良盆地の東南端に位置し、桜井市の西部地域(桜井村外山から桜井市谷周辺)を指した古代の地名で、磯城邑の内にあり磯城彦兄弟の本拠地であった場所です。