当主 挨拶

今井町 環濠の意義


今井町 最前線 織田信長 河合清長
西環濠

今井町において環濠の存在が重要な役目を果たしてきた経緯と今西家が歴史的に役割を担ってきたかを説明してまいりたいと思います。 


今西家の旧所領地である南西部の現・春日神社から北西部の八幡神社にかけて環濠を深くし、三重の堀にして強固な備えとしたからこそ、織田信長軍の武力に対して半年余りも持ち堪えることが出来ました。(16世紀中頃から後半にかけ、東西450メートル、南北250メートルで2重や3重の濠を設けたとされる。外濠は信長に降伏後、家臣の明智光秀が埋めたとされる。)

明治初年頃まで残っていた町の入口に番屋まで付属した9つの門(東側3ヶ所、西側1箇所番屋付設、南側3ヶ所、北側2箇所)と環濠は、自治都市としての特権のシンボルであり、これらの門は朝6時から夕方6時まで開閉され、夜間は4門のみを指定して吟味の上出入りさせておりました。
特に、本町筋の西門は、番屋を建てて門番を置き厳重なものとし、環濠によって安全を確保し、商人が安心して自由取引市場を展開することが出来ました。
また、自衛意識は防火措置にまで及んでおり、延焼しやすい二階の壁や軒裏(のきうら)は、漆喰で塗り籠められ、これだけ家が密集していながら大火というものが江戸時代から一度もなかったといわれます。
下水なども、道路脇を流すのでなく、土地のわずかな高低を利用して、それぞれの宅地の背割り線で下水溝が町中に張り巡らされる配慮がなされています。


このように、今井町にとって環濠が暮らしの中で根付き、町並を守ってきた要因であり、もし、環濠が存在していなかったら現在の町並も残っていなかったのは、周知の事実ではないでしょうか。

町の安全だけでなく、生活排水と地下水位の調節機能を果たしてきました。

父は生前、利便性から環濠を埋めて、道路にしてしまって地下水位が上昇して、地震が起きたときの浸水や液状化の心配をしておりました。

今西家 茶室跡 今井児童公園 寄付
今西家茶室跡(今井児童公園 寄贈)

先駆者の気概


現在の今西家の宅地は、北・東とも道路に面して、南面は、県道(御堂筋)までになっていますが、明治時代中頃までは環濠内の自衛のために今井児童公園から春日神社境内および八幡神社までの西面一体が旧宅地でした。

今西家が盾になって一向宗道場である称念寺を守るように塞がれていた御堂筋は、今井町の生活と産業に寄与するために、奈良県に無償貸付け(橿原市今井町3丁目679-3、296-4、296-6、295-2)して道路として開通させ、今井都市緑化事業協力のため今西家南西部(橿原市今井町3丁目679-3)を無償貸付けし、今西家の茶室があった西部(橿原市今井町3丁目679-1、644-2、644-14)を橿原市に寄贈して今井児童公園にしました。

また、今西家南側に織田信長本陣跡の祠が建っていましたが、第二次世界大戦の戦火を危惧して戦時中に父と高祖母が二人で撤去しました。

今西家所有地 無償貸し付け  今井都市緑化事業
今西家所有地 無償貸し付け(県道、都市緑化)

今井都市緑化事業の一環として、今西家前の西口環濠跡を地下水位調整も兼ねて整備する為に、大戦後大蔵省の所有となっていた土地を橿原市に払い下げる段取りを付けて土木工事をしましたが、地下水位の調整整備は現代の土木技術を持ってしても断念せざるを得ない結果になり、景観のみの整備に終わってしまいました。改めて先人達の知恵と技術そして、redundancy(冗長性(じょうちょうせい))に脱帽だと生前父は語っておりました。

 

今西逸郎の英断により今井町の町並みが残る


天皇陛下 神武天皇 御稜 参拝 列車
JR畝傍駅

今井町は、幕末になると重税などにより町は衰退に向かい、明治政府の徳政令(とくせいれい)によって大名への貸付金が凍結し、富豪は消滅しましたが、依然として南大和の中心地であり、明治初年には奈良県出張所が置かれました。奈良県再設置問題がおこった時もその県庁舎の位置について奈良市を外し、今井町に設置しようとする有力な動きがあった程でした。

明治時代の鉄道開通の際、今井町に持ち上がった鉄道駅建設計画に明治期も引き続き市中取締役の任にあった13代目当主今西正厳逸郎が新政府に反対したことから、隣町の八木町につくられました。

今西家先祖の英断で町並みは残り、重要伝統的建造物群保存地区に選定されるに至り、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件と建築物が504棟、工作物が119件、環境物件が69件あり、今では全国で最も多い地区となっています。

大正初年頃の今西家住宅西側面(牢屋、三階蔵残存)今西逸郎 今西元次郎
大正初年頃の今西家住宅西側面(牢屋、三階蔵残存)

建築史家 伊藤ていじ博士の回想/承前啓後(先人の経験成果を受け継ぎ,未来を開く)


財団法人今西家保存会設立以来、評議員を務めていただいた建築史家で工学院大学学長故伊藤ていじ博士が(昭和三十)1955年に東京大学工学部町屋調査で初めて今井町へ訪れた倒壊寸前だった頃の今西家の様子を

『本瓦ぶきの屋根には、草が生え、隅木(すみぎ)は折れて瓦は破れ、雨水は遠慮なく屋内に降りこみ、土間に立つと二本の太い柱が、傾いているこの建物を(かろう)うじて支えていたが、建設当初の面影を想いうかべる事ができたから「腐っても鯛だ」と解った。

また、今までにこういう種類の民家を見たことがなかった。

一般に民家というものは、外観は地味にしても内部には凝るものである。

ところがこれは、それとも全く逆なのである。

今様にいえばこれは「つっぱりすぎた」建物なのである。

この建物は道の真ん中にいでたち行く手を(ふさ)いでいるように見え、傷だらけになりながらも必死で町を守ろうとするその姿に民家というよりも天守閣(てんしゅかく)を思わせた。

しかし、今は見るも無残な建物で倒壊しやしないかと心配する有様である。

そうした状態はもう二百年、またはそれ以上続いてきたに違いない。

そうであるのに、この建物が取り壊されないで、残されてきたのは何故だろうか。

人間の創った技術や文明が人間生活を高め、住み心地をよくするというのに、代々の人たちは何故その不便にも耐え忍んできたのだろうか。

今井町並み保存 伊藤ていじ
修理前正面全景(1960年当時)

現代文明の利器が人間の幸福を高めるどころか、明日の生存そのものさえ脅かすように、新しいものは決してその家を支えはしないと考えていたためだろうか。

確かに建物の古さは、格式の象徴としては人間よりも信用できるものがあったかもしれない。

歴史というものは、たとえ論理的に整然と体系だっていたとしても、頭の中の架空の構成に過ぎない間は、私たちの生きる哲学になることは少ないと思うからである。

恐らく目に見える建物を通して感覚的に理解した方が、より身につくであろう。

すぐれた歴史の叙述は小説のようなものである。

なぜなら、それを全人格的に感覚的に理解できるからである。

そこにある民家は、まさにそのものなのである。

民家はそこにあるのが大事だと思う。


博物館や民家集落は、やむをえない養老院のようなものである。

そのままそこに放っておいたのでは消えてなくなってしまうので、やむをえず私たちはそこへ収容するのである。

そして、そこにある民家は弱々しく、生き返ることなきミイラのようなものである。

もう民家はだれもつくりはしない。

民家らしきもの、民家風の住宅、民家調の店、民家の細部を利用したものをつくりはするけれど、もうだれも昔ながらの民家そのものをつくりはしない。

農民たちにとっては茅を入手することは極めて困難なことになってしまい、今ではその屋根の維持をもてあまし、この家はプライバシーがないと嘆く。

そしてある民家では、家族たちは決して住みはしない。

 

今西家 修理前東妻全景
修理前東妻全景(1960年当時)

昨日こわして今日再建された住居は民衆の住居にちがいないけれど、それは、いわゆる民家ではないし、だれも民家と呼びはしない。

それゆえ民家の社会的機能は喪失しつつあると言えよう。

社会的機能をもたないものは存在理由を失い、やがて消滅するだろう。

かつての竪穴住居がそうであったように。

それは誰も疑うことはできない。民家の消滅を阻止するためには、民家集落というような露天博物館に移築し、陳列品としての機能をあらたに与え、飾り保存しておくより仕方のないものだろうか。

私たちは次のことをよく知っている。

すなわち、民家は現在ある状態よりも、使いにくく不便になり、現代生活に即応しなくなったとしても建設当初の姿に戻した方がはるかに美しく魅力的であることを。


現代生活が要求する機能に合致させようと思うならば、その美しさは必然的にそこなわなければあらないことを。

これは確かに、封建時代に育ち封建時代に大成された民家の現代社会における悲劇的な運命の一つの側面を物語るものである。

もしそうであるならば、私たちは民家を捨て去るべきだろうか。

私たちが未来の生活を夢見るとき、ひとり民家のみが過去に向かって保守性を強調しなければ美しくありえないとしたら、もはや民家の崩壊を阻止することはできないのであろうか。

確かに、もはや滅びゆくものへの郷愁のみでは民家の社会機能を回復する事はできないであろう。

しかし、民家の中に現代の建築イデオロギーに示唆する何かを発見することができる。

 

私はそう思う。

今井町牧村家にあった今井宗久ゆかりの黄梅庵  堺市 大仙公園
かつて今井町牧村家にあった今井宗久ゆかりの黄梅庵(現:堺市大仙公園内)

現代のデザイン・イデオロギーに行き詰まりを感じた建築家たちのある者が民家を凝視するのは、象徴的で有意義な空間概念が内在するらしいと直感的に悟っているからだと私は思う。

私たちが何かを捨て去り無視するのは、その中に現代的な価値を見いだせないという貧困さに起因している場合が多いことを知っている。


それは、滅びゆく民家が残してゆく虎の皮のようなものであるかもしれないが、十六世紀の茶人たち―彼らは、民家を彼らの芸術の原形のひとつとして関心を持ち、「美の対象」とみなした最初の人たちである。

彼らは、その中に寂びた美をみつけて芸術という高さにまでたかめ、それは茶室建築と、いわゆる数寄屋建築というそう双生児を生みだすにいたった。

彼らは民家を原形としてつくりだした茶室を通して、デザインを中世の宗教の桎梏(しっこく)から解放した。』

と当時の傷だらけになりながら辛うじてたっていた今西家をしのび、現代人に新しいクリエーティビティー(創造性)とデザインの源泉を古き民家から学ぶ事が出来るのではないかと提唱されています。

承前啓後-「今井町の魅力を」

(永禄九)1566年から今井に居を構えてきた子孫として、今後も先祖及び今井町先人の遺志を引き継ぎ、建造物や工芸品、美術品のみならず、歴史的背景と共に伝統技術等を後世に残すことが文化遺産を継承していく者の使命と自覚し、今井町の魅力を一人でも多くの方々に伝えることによって社会に希望を感じてもらい貢献できるように、引き続き景観整備や町並保存の事業に協力をさせていただき、承前啓後(しょうぜんけいご) につとめてまいる所存ですので、ご高配賜りますよう切にお願い申し上げます。

十市県主今西家 当主 今西啓仁 The Imanishi of Tochiagatanushi clan head of a clan Keiji Imanishi








十市県主今西家 当主

   今 西 啓 仁