松平春嶽/牧村清右衛門

利休七哲 牧村兵部子孫の徳政令による大名貸し付け金凍結

幕末四賢候の一人で16代越前福井藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)公自からが今西家へ赴いて拝領された笏谷石(しゃくだにいし)の流し台があります。 笏谷石は、約1600万年前の火山活動で降りつもった灰が固まってできた火山礫凝灰岩(かざんれきぎょうかいがん)で、福井県福井市の足羽山一帯の笏谷地区の石質が優れていたことから、笏谷石という名称がついたとされています。 

また、水に濡らすと深い青色に変化することから別名「青石」とも呼ばれています。 

 

今西家と姻戚の材木商や金融業を幅広く営んでいた今井町随一の豪商牧村家は、利休七哲(りきゅうしちてつ)(蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、芝山監物、瀬田掃部、高山右近、牧村兵部)のひとり伊勢岩手藩主の牧村利貞(まきむらとしさだ)が牧村家初代と伝わり、その孫が今井へ移住し、代々材木商を営みました。
幕末期には松平春嶽に貸し付けを行い福井藩蔵元を務めていましたが、明治維新後の徳政令によって大名貸の貸付金の一万両(約11億円)が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかったのは、世は世といえ悔やんでも悔やみきれません。
(文久三)1863年5月、坂本龍馬は軍艦奉行並 勝海舟の使いとして、神戸海軍操練所の設立資金を援助してもらうため松平春嶽のもとを訪れて資金を調達し、目的を達成できたのも「海の堺・陸の今井、大和の金は今井に七分」といわれ今井の中でも抜きんでた豪商・牧村家の財力の賜物で維新の礎になり、国の行く末の一旦を担ったといえます。

龍馬は「君がため 捨つる命は 惜しまねど 心にかかる 国の行く末」という歌を残しています。


牧村家番頭が再三再四、越前福井藩に赴いて貸し付け金の取り立てにきた模様が福井藩の控帳に記載されています。また、牧村家の娘が堺きっての商家へ花嫁修行に行った折、両替天秤が実家のものと比べ粗末なのに驚いたという逸話も残っています。

なお、大阪府堺市の大仙公園にある今井町出身の今井宗久ゆかりの茶室「黄梅庵」は、もと牧村家所有の茶室を電力王で小田原三茶人(おだわらさんちゃじん)(益田鈍翁、野崎幻庵、松永耳庵)の一人である松永安左エ門が買受け、小田原市に移築したものを1978年(昭和53年)に相続人の松永安太郎が堺市に寄贈し、堺市制90年記念事業の一環として(昭和五十五)1980年10月、大仙公園内に移築されました。

 

松平春嶽公より受贈の笏谷石
越前藩主・松平春嶽公より受贈の笏谷石