松尾芭蕉・井原西鶴/今西正盛

今西家 七代目当主 今西正盛 肖像画
七代目当主・今西正盛肖像画

大坂夏の陣の際に豊臣勢の武将大野治房の攻撃を受けて傷みが酷かった今西家を(慶安三)1650年に再建したのが七代目当主今西正盛(いまにしまさもり)で、俳諧の友として松尾芭蕉(まつおばしょう)井原西鶴(いはらさいかく)と特に親睦が深く、(寛文七)1667年今西正盛の句集『耳無草』(『詞林金玉集(しりんきんぎょくしゅう)』)を編纂する際に交際の深かった若き松尾芭蕉が発句(ほっく)しています。 

(発句)「夕顔の花に心やうかりひよん」芭蕉 
うかれける人や初瀬の山桜(続山井)
「うかりける人を初瀬のやま颪はげしかれとは祈らぬものを」(千載集)の上三句をもじった。 (松尾芭蕉年表より抜粋)


芭蕉年表に江戸時代の短冊目録に今西正盛(元和八)1622年8年~(寛文八)1668年4月29日の名前が記されています。
初句は「越後鮭」で現在、岸和田市が管理している佐々木勇蔵コレクション短冊目録のコレクション601番を閲覧できます。


また、井原西鶴の「独吟一日千句(どくぎんいちにちせんく)」や「古今俳諧師手鑑」に句を寄せ、西鶴の遺稿集である(元禄十二)1699年刊「西鶴名残の友(なごりのとも)」の中で、今西正盛と法隆寺僧の哥慶が吉野山奥の比丘尼(びくに)の庵を訪ね、狐の怪談の聞き手として登場しています。

※今西正盛は西鶴編「古今俳諧師手鑑」延宝四(1676)年所収の和州出身の俳人であり、吉野山の代表的案内書である「吉野山独案内」(謡春庵周可編、寛文十一年刊)に宗独という号で最多24の俳諧・狂歌・連歌を練って吉野山を案内しています。

参考文献:「『西鶴名残の友』「人にすぐれての早道」と狐飛脚伝承」(梁誠允(やんそんゆん) 著)「国語と国文学」(東京大学国語国文学会)平成30年6月号

今井町は、当時「今井千軒」といわれる程多くの家々が立ち並び栄えましたが、西鶴は「千軒あれば友過といへるに、ここにて何をしたればとて渡り兼ぬべきか(家が千軒もあれば、その中で住む人たちが互いに客になり合うことによって、共に生計を立てていけるということ)」と書いています。

松尾芭蕉 多賀城碑 壷の碑 拓本 今西正盛 受贈
松尾芭蕉より土産の多賀城碑(壷の碑)拓本を受贈
俳諧 短冊 屏風 松尾芭蕉 井原西鶴 今西家
俳諧短冊屏風

朝廷に属さない蝦夷との戦いは、重要課題であり、多賀城(たがじょう)という国府(こくふ)を置きました。当初は郡山遺跡(仙台市太白区郡山)に官衙(かんが)がありましたが、(養老八)724年に多賀城に移され、長らく東北の中心となり、軍事的拠点になっていました。760年代に建てられた多賀城碑が江戸時代に発掘され築城と修復の経緯が刻まれており、松尾芭蕉も東北の旅の際に眺め、わざわざ今西正盛のために拓本を取ってくれました。