十市県主今西家の歴史


十市縣主系図
十市縣主系図

ヤマト政権~鎌倉時代


十市県主(とをちのあがたぬし)今西家
は、弥生時代以前のヤマト先住氏族で、倭国磯城邑(しきむら)首長の磯城彦(しきひこ)兄弟の弟磯城黒速(おとしきくろはや)の子孫である(神武即位前紀戊午年9月戊辰条・古事記神武段)。(弘仁6年)815年に編纂された古代研究の基礎史料である新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)において、十市県主と同族の中原系図に十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載している。

御諸山遥拝
御諸山遥拝

磯城は奈良盆地纏向(まきむく)一帯を差し、「石に囲まれた聖域」という意味で、御諸山(みもろやま)(現:三輪山)頂上が古来より磯城の神の拠り所であった。神武東征の目的地である磯城邑を治めていた磯城彦の兄磯城師(えしきたける)は滅され、協力した弟磯城黒速に論功行賞として磯城県主(しきのあがたぬし)の称号が与えられた(日本書紀神武天皇即位前期 戊午年十一月己巳条)。神武天皇は、兄磯城軍の磯城八十梟師(しきのやそたける)が兵を結集していた磯城邑の片居(かたい)磐余(いわれ)と名付け、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)と称した(日本書紀神武天皇二年二月乙巳条)。先住豪族のもう一人の長である弟磯城が戦さを収めて融和したことで叛乱を抑えた。神武東征後、天皇家は真っ先に弟磯城を姻族(いんぞく)とし、磯城県主家と外戚(がいせき)を結び、綏靖天皇(すいぜいてんのう)以下6代に皇妃を入れたとされる。孝昭天皇(こうしょうてんのう) の治世に十市県主と改めた。

新撰姓氏録の第一(ちつ)(皇別氏族)において、安寧天皇(あんねいてんのう)第三皇子磯城津彦命(しきつひこのみこと)が氏祖と記されている(新撰姓氏録左京皇別上86新田部宿祢(にいたべのすくね)、右京皇別上151猪使宿祢(いつかいのすくね))。十市首(とをちのおびと)十市宿禰(とをちのすくね)と改め、(天禄2年)971年に十市有象・以忠が中原宿禰(なかはらのすくね)姓に改め、(天延2年)974年に中原朝臣(なかはらのあそん)姓を賜り、明法道(みょうほうどう)明経道(みょうぎょうどう)を司り、大外記(だいげき)少外記(しょうげき)を世襲職とした。その後、押小路家(おしこうじけ)を名乗り、地下家筆頭として世襲され、明治時代に男爵(だんしゃく)となった。

箸墓(倭迹迹日百襲媛命御陵)
箸墓(倭迹迹日百襲媛命御陵)

また、古事記においての第七代孝霊天皇(こうれいてんのう)皇后の十市県主の祖大目の娘細比売命(くわしひめのみこと)の表記名が、日本書紀では磯城県主大目の娘の細媛命と記されていることから十市県主は磯城県主と同一氏族であることがわかる。特に、孝霊天皇と十市県主家とは所縁が深く、細媛命が第八代孝元天皇こうげんてんのうをもうけ、第三代安寧天皇第三子磯城津彦命の孫で皇妃の倭国香媛やまとくにかひめが邪馬台国の卑弥呼や桃太郎に推定される倭迹迹日百襲姫命やまとももそひめのみこと吉備津彦命きびつひこのみことをもうけている。

十市御縣坐神社(橿原市十市町、社殿祭神 十市県主大目命)
十市御縣坐神社(橿原市十市町、祭神:豊受大神 社伝祭神:十市県主大目命)

第十代崇神天皇(すじんてんのう)の治世になると御諸山信仰の祭祀職を離れ、本拠地を御諸山山麓から十市御縣坐神社(とをちのみあがたにますじんじゃ)に移したが、疫病が流行り、百姓流離し国に叛くものがあった。皇女倭迹迹日百襲媛命の神託に従い、天皇は物部連伊香色雄(もののべのむらじいかがしこお)に命じ、茅渟県(ちぬのあがた)大田田根子(おおたたねこ)を探し出して祭祀主とし、御諸山を三輪山(みわやま)として大物主神(おおものぬし)を祀らせた結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して安堵した(崇神記七年二月辛卯条)。第十一代垂仁天皇(すいにんてんのう)の治世に皇女倭姫命(やまとひめのみこと)御杖代(みつえしろ)となって「磯城の厳橿の本(しきのいつかしのもと)」に鎮座していた天照大神を「磯堅城の神籬(しかたぎのひもろぎ)」にうつして、巡礼を経て伊勢の地に祀った(日本書紀 垂仁天皇25年3月条)。

甘樫丘より畝傍山、二上山を望む
甘樫丘より畝傍山、二上山を望む

ヤマト政権は有力豪族に支えられて朝廷を中心とする中央集権統一国家を形成していったが、より確固たるものにするために聖徳太子(厩戸王)(うまやどのおう)によって十七条憲法を制定し、中国の制度を採り入れた律令国家を目指した。その志が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に受け継がれ、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に大化改新(たいかのかいしん)を断行して基礎を固め、天智天皇(てんじてんのう)の近江令、天武天皇(てんむてんのう)飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)、藤原京において文武天皇(もんむてんのう)大宝律令(たいほうりつりょう)制定によってほぼ完成した。

興福寺五重塔
興福寺五重塔

京都に遷都され、朝廷の官職に就くために出仕し、中原朝臣姓を賜り貴族化する一族と、あくまでも十市御縣坐神社周辺に根付き十市中原氏を称する一族に分かれた。摂関政治が行われ、11世紀前半には、大和の国司(くにづかさ)は摂関家の後ろ盾で国内を支配したが、11世紀後半になり、院政が始まって摂関家の力が後退すると、国司と興福寺との力関係に変化がおこり、12世紀半ばには国衙(こくが)が及ばなくなり興福寺の力が強くなった。古代豪族の末裔である大和四家と呼ばれる衆徒国人(しゅとこくじん)(筒井氏、越智氏、十市氏、箸尾氏)が武士団を組織して興福寺の荘園を管理した。

「広瀬社神主曽祢(樋口)氏系図」
「廣瀬社神主曽禰連(樋口)氏系図」

南北朝時代

南北朝時代、十市民部太夫中原遠武(とをちみんぶだゆうなかはらとおたけ)の次男河合民部少輔中原遠正(かわいみんぶしょうゆうなかはらとおまさ)は、廣瀬郡河合の廣瀬大社(ひろせたいしゃ) 神主・饒速日尊(にぎはやひのみこと)の後裔である曾禰連(そねのむらじ)樋口太夫正之の婿養子となり、8000余石を領して河合城を築き、(延元元年)1336年8月28日に兄の十市新次郎入道と共に雑兵500人を引き連れ後醍醐天皇を吉野へ奉送(ほうそう)

(貞和5年)1349年、楠木正行(くすのきまさつら)楠木正時兄弟・十市新次郎入道らと共に四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)に加わり楠木正儀(くすのきまさのり)配属として戦った。


・(暦応4年)1341年2月29日、広瀬郡河合城(大日本史料6-6-668)。

・(至徳元年)1384年、春日若宮祭礼の願主人の交名に「河合殿」がみうる(長川流鏑馬注進日記)。

戦国時代~安土桃山時代


十市家中興の祖といわれ戦国歌人として文武両道の誉れが高かった十市遠忠(とをちとおただ)の頃が最盛期で、嫡男十市遠勝の代になると、筒井順慶松永久秀の激しい戦いに翻弄され、娘のおなえは久秀に人質として差し出され、のちに嫡男久通の妻となった。織田信長が入京し、久秀が信長の力を背景に力を取り戻して、龍王山城が十市氏の手に戻り、おなえを旗印とする河合権兵衛清長以下松永派が筒井派を抑え込んだ。しかし、松永久秀が信長を裏切り、筒井順慶の巻き返しがおこり、永禄9年(1566年)2月十市遠勝ら一族郎党と共に松永派は今井の河合権兵衛居宅(現今西家住宅)へ亡命した。

・河合権兵衛清長が興福寺七堂仏餉料所(ぶっしょうりょうしょ)として私領田を寄進(多聞院日記)。
・(永禄4年)1561年2月19日、河合権兵衛 三好党松永久秀の使者渡辺与次に随行し順興寺へ実従(蓮如第七子)を訪問(私心記)。

・河合権兵衛清長が南都福智院に田地二町三反を寄進(多聞院日記 永禄9年1566年4月7日条)。
・(永禄10年)1567年多正月 十市殿、御内室ならびに内衆は今井に在住。 3日十市殿へ円鏡 、膳、樽など常用される荷物を十市の又六から今井へ持参完了する。27日今井へ為年首之礼下了、十兵ヘ一荷、御内ヘ百文、御ちへ百文、河権へ百文、上甚ヘ障子帋二帳、ト祐、伊源、中木、南左、同又八郎、同四郎、森主、松甚、マコ四郎、ヤ六、嘉藤二、サコ、セイ六、 衛門太郎、又六、宗二郎、甚四郎、衛門二郎(多聞院日記)。

・(永禄11年)1568年2月22日「河権」(河合権兵衛)、大和国春日神社へ栗毛の「神馬」を奉納(多聞院日記二)。

・(永禄11年)1568年3月12日、今井居宅で一族の十市遠勝と三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わす(多聞院日記)。

・(永禄11年)1568年8月27日、十市遠勝、龍王山城から十市平城に退去。その直後 秋山氏の手に落ちる。(多聞院日記)。
・(永禄12年)1569年6月9日、河合権兵衛より書状来る(多聞院日記)。
・(永禄12年)1569年10月24日、十市遠勝(遠成)が病死し、親松永派(十市後室、おなへ、河合権兵衛清長、伊丹源二郎、田中源一郎、川嶋藤五郎、上田源八郎、森本喜三) と親筒井派(一族の十市常陸介遠長)に分裂し、12月に河合権兵衛清長以下六名は十市後室を奉じて十市城を出て今井へ退去した(多聞院日記)。

・(元亀2年)1571年12月8日、多聞院英俊が今井へ十市後室に面会(多聞院日記)。

※「多聞院日記」は、水戸光圀や前田綱紀の修史事業、江戸幕府書物方下田師古による抜書で知られ、現在の公刊史料の底本となっている。

今井町画(橿原市教育委員会)
今井町画(橿原市教育委員会)

(天正3年)1575年、石山合戦に呼応し、織田信長の降伏勧告を拒絶した在郷武士団(十市家、河合家一族郎党)と長島一向一揆の牢人などの今井郷民が挙兵し、明智光秀配属の筒井順慶率いる織田軍勢と半年あまり戦った。しかし、一向宗率いる顕如上人(けんにょしょうにん)が信長に和睦を求めたため戦う大義を無くし、堺の天下三宗匠・津田宗及(つだそうきゅう)の斡旋によって今井郷に赦免状(しゃめんじょう)(橿原指定文化財)が与えられ信長と和した。以後、本願寺とは一線を引いた。

同年冬に信長は、今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に「萬事大坂同前(ばんじおおさかどうぜん)」として、座や課税などの制約を受けない自治権を認め、今西家の土間をお白州に見立ててお裁きが行われた(織田信長朱印状)。信長は褒美として名刀を下賜し、本陣を後にする際に当家を眺め「やつむね」と唱えた(旧今井町役場)。


・(天正4年)1576年11月14日、河合権兵衛、十市後室、織田信長への礼問(れいもん) のために俄かに上洛す(多聞院日記二)。
・(天正4年)1576年11月24日 筒井順慶(「筒井」)、「十後室」を同伴し上洛。(多聞院日記二)。

・(天正7年)1579年3月16日、筒井順慶、十市後室、上洛す(多聞院日記三)。

織田信長天下布武朱印今井郷惣中宛赦免状
織田信長天下布武朱印今井郷惣中宛赦免状

・「当郷事令赦免訖、自今以後、万事可為大坂同前、次乱妨狼藉等、堅令停止之状如件」(天正参年十一月九日織田信長朱印今井郷中宛)
石山本願寺(大坂本願寺)が寺内町において、既におこなっていた楽市場として保障していた市場に対して、信長も石山本願寺の政策を踏襲し「大坂並み」を取り決めた。

手錠(今西家所蔵品)
手錠(今西家所蔵品)

江戸時代


(元和元年)1615年今井西辺において大坂方の大野治房(おおのはるふさ)麾下の箸尾重春、布施春行らと激戦があったが河合清長(川井長左衛門正冬)以下鉄砲隊の活躍により町は無傷のまま残った。

(元和7年)1621年5月、大坂夏の陣の功績を称える為に郡山城主松平忠明(まつだいらただあきら)が当家へ赴き饗宴の後、徳川家康ことづけの来国俊銘の(らいくにとし)薙刀(なぎなた)などを拝領し、今井の西口を守ったことから今西とすることを勧められて改名した。

(寛永11年)1634年には全国にさきがけて幕府から許可を得て、今西家が札元(ふだもと)となり、藩札と同価値のある紙幣「今井札(いまいさつ)」が発行され、74年間流通したが、兌換(だかん)の保障と信用が高く、「海の堺、陸の今井」と謳われ「今井千軒」栄えた。

今井札(今西家造幣所札元)
今井札(今西家造幣所札元)

大坂夏の陣の際、豊臣勢の攻撃を受けて傷みが激しかった長屋門(ながやもん)を付設した今西家を陣屋として使用するために1650年(慶安3年)に改築したのが七代目当主今西正盛(いまにしまさもり)で、俳諧(はいかい)の友として松尾芭蕉井原西鶴と親睦が深かった。

(寛文7年)1667年今西正盛の句集『耳無草』(『詞林金玉集(しりんきんぎょくしゅう)』)を編纂する際に交際の深かった松尾芭蕉が若くして俳諧の道に進んだ頃に発句している。

明治時代~現代


十三代目当主今西正巌逸郎(いまにしいつろう)は、明治政府から今井町の市中取締役(しちゅうとりしまりやく)を引き続き任されて、男爵位を薦められたが辞退し、今井町近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対した。この英断により今井町の町並みは残り、後に重要伝統的建造物群保存地区に選定されるに至った。これにより乱開発が阻止され、町の保存に貢献した。


(昭和30年)1955年、東京大学工学部建築学科による町屋調査を経て、今西家が(昭和32年)1957年6月18日に(慶安3年)1650年3月22日の記のある棟札と共に国の重要文化財に指定され、文化財保護法により根本修理に着手し、奈良県教育委員会が今西家の委託を受けて(昭和36年)1961年3月に起工し、(昭和37年)1962年10月に竣工した。当家が重要文化財に指定されることにより、今井町の町並み保存の機運が高まり、全国町並み保存の先駆けとなった。(昭和50年)1975年の文化財保護法の改正によって「伝統的建造物群保存地区」の制度が発足し,全国の町並み保存が図られるようになった。

(昭和63年)1988年4月、今西家住宅ならびに同家に伝わる古文書、古美術品の保存維持管理及び公開活用を行うとともに、これらに関する研究調査を行い、以って学術文化の発展に寄与する事を目的とした財団法人今西家保存会の設立を文部省より認可される。

(平成26年)2014年4月、公益財団法人十市県主今西家保存会が認定される。

重要文化財指定書
重要文化財指定書