中原兼遠/樋口兼光・今井兼平・巴御前

巴御前 中原兼遠 樋口兼光 今井兼平 十市県主
巴御前

十市県主から系譜する十市宿禰有象(のち中原姓を賜る)の弟である十市以忠直系の中原兼経は朝廷で正六位下・右馬少允に叙任された後、信濃国佐久郡に移住し牧長(ぼくちょう)を務めました。三男の中原兼遠(なかはらかねとお)は、長男樋口兼光(ひぐちかねみつ)、次男今井兼平(いまいかねひら)、長女巴御前(ともえごぜん)の実子と共に幼少の源義仲(みなもとよしなか)(木曽義仲)を匿って育てました。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗ったとあります。

 

また、巴御前は「色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」『平家物語』(木曾殿最期)と記されています。『延慶本』では、幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも女武者として、召し使われたとされています。

粟津の戦い(あわづのたたかい) において、京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだという逸話が残っています。


乳兄弟の絆の強さを示す逸話として、『平家物語』「木曾殿最期」の段に、「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや(普段はなんとも感じない鎧が、今日は重くなったことだよ)」と言う義仲に対し、兼平は「それは御方に続く勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候らめ。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召し候べし。ここに射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢仕り候はん。あれに見え候は、粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静に御自害候へ(お体もまだお疲れになっておりません。馬も弱ってはおりません。何のために一領の鎧を重たいとお感じになるのですか。それは味方に軍勢がございませんので、臆病に、そのようにお思いになるのです。兼平(今井四郎)一人でありましても、他の武者千騎(にあたる)とお思いください。矢が7本8本ございますので、少しの間防ぎ矢を致しましょう。あそこに見えますのは粟津の松原と申します。あの松林の中で自害ください。)」と述べ、義仲が「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、一所でこそ討死をもせめ。(義仲は、都でどのようにでもなるつもりであったが、ここまで逃げてきたのは、お前と同じ場所で死のうと思ったからだ。あちらこちらで討たれるよりも、同じ場所で討ち死にをしようではないか。)」と言うと、兼平は「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕にて候なり。御身も労れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。云ふ甲斐なき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、某が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。唯理を枉げて、あの松の中に入らせ給へ(武士は、常日頃どれほどの高名がございましょうと、死に際に失敗してしまうと、長く不名誉となるのでございます。お体はお疲れでございます。後ろに従う軍勢はございません。敵に押し離されて、取るに足らない人の家来に組合い(馬から)落とされなさって、お討たれになられたならば、 『非常に日本国に評判が高くていらっしゃる木曽殿を、私の家来がお討ちになった。』 などと申すであろうことこそ、残念でございます。すぐにあの松原の中にお入りください。)」と述べた。

義仲が「さらば。(そのようにいうなら。)」と別れを告げ、粟津の松原で馬の脚がぬかるみに取られて動けなくなったところを矢を射られて討ち死したのを見て、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する見本よ(今となっては誰をかばうために戦をする必要があるだろうか。これをご覧あれ、東国の武士たちよ。日本一のつわものが自害する手本だ。)」と言って、太刀の切っ先を口の中に含み、馬から逆さまに飛び降りて、(頭を)貫いて自害し果てました。こうして、粟津の戦いは終わりを告げました。

あの松尾芭蕉が源義経よりも木曽義仲を慕い、義仲寺の木曽義仲の隣に亡骸を葬って欲しいと弟子に遺言していました。

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」

「木曾の情雪や生えぬく春の草」


また、芭蕉遺語集に、「偖からは木曾塚に送るべし。爰は東西のちまた、さゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづねよらんも便わづらはしからじ」とあり、「(義仲寺は)生前の契り深い所であり、また友の訪ねる便もよい、と其角の文によれば、「たはぶれ」に語ったのを、乙州は「敬して約束たがはじ」と承ったとあります。
乙州へのこの言がなかったら、弟子たちは芭蕉をどこへ葬るか、大変なもめごとになったろう。とあり、松尾芭蕉の遺骸は、遺言の「骸は木曽塚に送るべし」という通りに、故郷の伊賀上野ではなく義仲寺の木曽義仲の墓の隣に葬られています。