麒麟(明智光秀)と第六天の魔王(織田信長)がきた

織田信長天下布武朱印今井郷惣中宛赦免状(橿原市指定文化財)
「当郷事令赦免訖、自今以後、万事可為大坂同前、次乱妨狼藉等、堅令停止之状如件 天正参年十一月九日 織田信長朱印 今井郷中宛」

(今井郷のこと赦免せしむる旨おわんぬ、今より以後、万事大坂同前たるべし、次に乱妨や狼藉など、堅く停止せしむるの状くだんのごとし 天正3119日 天下布武朱印 今井郷中)


(天正三)1575年冬に信長は、今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に「萬事大坂同前」として、座や課税などの制約を受けない自治権を認め、今西家に行政の権限と権断沙汰を許した(織田信長朱印状)。信長は褒美として名刀3口を下賜かしし、本陣を後にする際に当家を眺め「やつむね」と唱えた(旧今井町役場)。

※ 石山本願寺(大坂本願寺)が寺内町において、石山本願寺が既におこなっていた不輸・不入の権および楽市場として保障していた市場への政策を、信長も踏襲し今井郷に対して「大坂並み」の自治特権を取り決めた。

信長が当家に本陣を構えたのは、大坂夏の陣の際に豊臣勢の攻撃により傷みが激しく(慶安三)1650323日に七代目今西正盛により改築される以前の今西家である。古文書によると城郭構えであったことが記されている。

なお、武家諸法度寛永令により、屋敷建設の簡略化遵守が徹底されていたので、陣屋としての式台やニ階座敷は設けられたものの、長屋門などを省き、かなり縮小再建されたようである。


今井が城郭構えである理由としては、先にみた堀・土居・矢倉のほか、街路が遠見遮断のT字路ないしは食い違いになることが指摘されている。時に往年の大手であった西口は今西邸の張り出しで鉤の手になっている。また、この大手に入る堀と橋の箇所は春日神社に続く常福廃寺の張り出し部分から横矢をかける位置になる。古図による南口は丸馬出し状に張り出している。現在も一部を除いて環濠がのこり、春日神社の西には土居も残っている。(参考:「日本城郭大系:10」による)