徳政令=債務破棄という名のラストデイ

明治維新後の廃藩置県により藩が消滅すると、旧藩の債務は新政府が引き受けたが、財政的余裕はなく、1843年より前に諸藩が借りた負債は無効とし、1844年以降の負債に関しては、無利息で50年間に渡り返済することにしたが、江戸幕府の負債に関しては、幕府が「朝敵」であったと言う理由で、一切の債務引き受けを拒否しました。

これにより、諸藩の借金は約半分だけが50年間にて返済される事になり、幕府の借金は踏み倒されました
このように、貸付していた大阪商人は特に莫大な損失となり、40軒もの両替商が明治初期に倒産し、涙をのんでいます。 牧村家も同様に大名貸しの貸付金が凍結し、債権が踏み倒され今井町を離れざるを得ない状況になってしまいました。
牧村家が維新後まで存続して居れば、都市銀行になっていた筈です。
なお特筆すべきは、今井町の牧村家の貸付金が維新を早めたという事実です。 飢餓の影響で財政が厳しかった幕末期の福井藩に貸し付けたお金が松平春嶽公から坂本龍馬に手渡され、その一部である5千両(約11億円)が「神戸海軍操練所」の運営費に使われてたということです。
「神戸海軍操練所」設立の許可を受け、勝海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められ、幕府から年三千両の経費の支給も承諾されはしたが、海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に坂本龍馬が福井藩に出向いて松平春獄から千両を借入れたました。
牧村家の番頭 紙屋半三郎が再三再四、越前福井藩に赴いて貸し付け金の取り立てにきた模様が福井藩の控帳に記載されています。
また、松平春嶽公は借金していたのを気がねして越前より笏谷石(しゃくだにいし)の流し台を運び今西家へ贈り、幕臣勝海舟も慰問して書をのこしています。
なお、大阪府堺市の大仙公園にある今井町出身の今井宗久ゆかりの茶室「黄梅庵」は、もと牧村家所有の茶室を電力王で小田原三茶人の一人である松永安左エ門が買受け、小田原市に移築したものを1978年(昭和53年)に相続人の松永安太郎が堺市に寄贈し、堺市制90年記念事業の一環として1980年(昭和55年)10月、大仙公園内に移築された。この茶室は豊臣秀吉吉野山花見に設けられ「宗久茶屋」と称され、後に松永安左エ門が今井宗久の菩提寺大徳寺黄梅院 (京都市)にちなんで「黄梅庵」と名付けられました。