松永久秀と今井郷

松永久秀
松永久秀

織田信長は天正三年(1575年)に、高屋城において三好康長を攻め落し、長篠の戦いにおいて武田勝頼に圧勝し、越前一向一揆において1万2250人以上を討ち取っている。
その年
、今井郷は、信長の降伏勧告をききいれず本願寺に呼応して戦うことになるが、松永久秀の嫡男久通の嫁おなへが信頼する河合権兵衛居宅を西門と櫓を一体化させて多聞造りとし、三好家の旗印である三階菱を掲げていたことから推察して久秀が深く関わったことが察せられる。

松永久秀が三好家当主に生涯忠節をつくし、三好長慶以来阿波国三好氏と本願寺との親密な関係に裏付けされ本願寺に対して友好的であったのは一貫しており、信長に恭順したり叛逆したのは、戦国の世情を臨機応変に判断した所存であったといえる。


はからずも天正5年(1577年)8月17日、久秀・久通父子は本願寺攻めから離脱し、信貴山城に籠城した。9月末には織田の軍勢10万が差し向けられ、10月には完全に包囲された。佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した(『川角太閤記』)。10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。嫡男久通は10月1日に柳本城で自害したとも(『多聞院日記』)、柳本城から信貴山城に逃れ、10月10日に久秀とともに自害したとも考えられる(信貴山城の戦い)。

松永久秀は天守閣を中心とした城郭建築の第一人者であり、多聞造りを創始した人物とされているが、十市遠忠修築の大和随一の規模を誇った「龍王山城」の天守に多大なる影響を受けたという。城門と櫓を一体化させ防御力を向上させるという発想は、当時は極めて革新的であった。

また、茶人としての松永久秀は武野紹鴎に師事しており、天下三宗匠との交流も深かかった。

 

織田信長は家臣に対して厳しい人物と言われるが、久秀への対応は甘かったといわれる。2度目の反逆でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命を考えていた節があり、信長が一目置く武将であったことがうかがい知れる。