前当主 今西啓師の今井町への愛と志

expo '90 PHOTO MUSEUM
EXPO'90 花博写真美術館オープニング記念式典

父が口にしなかったことは、多い。
功績もその一つだった。

それは謙遜などではない。
語らぬことを潔しとする、武士道の血がそうさせたのだと、私は思っている。

しかし父が生涯、繰り返し口にした言葉がある。「志」である。

祖母が「称念寺の修復は、今井町のみんなにお任せしておけば」と言ったとき、父は珍しく声を荒げた。

「儂がやらねば先祖に申し訳が立たない」


幼いころの父は、手が付けられなかった——そう打ち明けてくれる人々は、決まって少し困ったような笑みを浮かべながら話してくれたものだ。

今西家の前を通りかかる父の学友たちは、呼び止められることを恐れ、わざわざ遠回りをして別の道を選んだという。校庭では子どもたちを集めて軍隊行進を強要し、家宝の鎧や刀を持ち出しては戦ごっこに興じ、母・キヨ子を困らせてばかりいた。

しかし、そんな父をひそかに愛し、味方であり続けたのが、高取藩家老吉川家の娘であった曾祖母・みかだった。二人は不思議なほど気が合い、陰日向に寄り添い合った。

太平洋戦争の最中、空襲の炎を恐れた父と曾祖母は、今西家南側に建つ織田信長公陣屋跡の祠を二人で解体し、薪に変えた。大坂夏の陣の功績として幕府より拝領した薙刀は、供出を免れるために真っ二つに二人して断ち切ったという。乱世を生き抜いてきた家の記憶が、戦火の時代にまた試練を受けた。その夜の二人のことを、父はよく話して聞かせてくれた。

 

終戦後、祖父・一郎が帰還すると、父は厳しく育てられ、名門・旧制畝傍中学校へと進んだ。しかし本性はやがてあらわれ、父は再び”ならずもの”となった。祖父が北海道の開拓事業へ去ると、たがが外れ、大阪の愚連隊へと流れていった。

祖母・キヨ子は、泣かなかった。息子を取り戻すために、自ら天理教の寮へ共に寝泊まりして、身をもって修養の道を歩んだ。母の覚悟が、父を変えた。

やがて父は関西大学へ進み、教師を経て新聞社の記者となり、三十歳の若さで、大阪市中之島に不動産会社を興した。母・綾子と出会い、家庭を築き、奈良市高畑町——志賀直哉邸の隣——に居を定めた。千里の大阪万博に関わり、豊中市へと移り住んだ。

 

その後の父の歩みは、都市と文化と夢の交差する場所に、つねにあった。

父は根っからの保守人であった。しかしその信念は、人を遠ざけるための壁ではなく、人と向き合うための地盤だった。政治的イデオロギーなど意に介さず、当時共産党員であられた米田豊昭氏——京都大学主流派・三代目全学連委員長——後に都市科学研究所代表と生涯の盟友として語らい続けた。左右を問わず、志のある者には真っ向から分け隔てなく向き合う。それが父という人間だった。

京都大学総長・奥田東氏とともに阪急グランドビルの都市文化センターで夢を語り、関西新空港構想を手がけ、国際文化公園都市・彩都の都市開発に関わり、箕面市に大阪国際文化高等学校・中学校(OIA)を設立した。その学び舎は今、関西学院千里国際学園として国際人の育成を続けている。
返す返すも惜しまれるのは、「関西学研都市構想」——日本の知性を一所に結集し、この国の未来を切り拓こうとした、あの壮大な夢。志半ばにして、父たちはそれを果たせなかった。

バブルが弾け、京都大学の京田辺移転構想は頓挫した。あのままバブルが弾けずに京大が移転を果たし、関西文化学術都市構想が成功していれば、日本製のOSも、今や世界を席巻するAIも、夢ではなかったかもしれない。

父は最後まで信じていた。構想がよみがえる日が来ると。その日、未来は今よりも必ず明るくなると。

 

そして、いかなる時も父の根にはつねに、今井町があった。

今西家の末裔として生を受けたことへの、静かな、しかし揺るぎない責任感。
それは顕示欲でも義務感でもなく、先祖から受け継いだ純粋な愛から湧き出るものだった。父は今井町において、生涯、功績を誇ることなく名を伏せて手柄を人にゆずり一円の利権も得なかった。

称念寺に戦争供出で失われた釣鐘を再興することから、父の恩返しは始まった。一八四五年再建の太鼓楼を修復し、今西家西側の土地を市に寄付し、春日神社南西部の環濠跡を無償貸与し、信長と闘った今井町西側の環濠整備を実現した。

称念寺本堂の重要文化財指定は、大蔵省「花の十八年組」と謳われた元環境事務次官・船後正道氏の力添えと、東京大学・渡邉定夫名誉教授の献身的な奔走によって成し遂げられた。

しかし、指定の条件として文化庁が求めたのは、本堂前の墓地移転という難題であった。父は各檀家に一切の負担をかけまいと心を砕き、中学の同級生が経営する藤井株式会社の隣接地を橿原市に買い上げさせ、墓地移転の道筋を静かに整えた。表に出ることなく、しかし確実に——父はそうして、念願の指定を実現へと導いた。


父が「最後の仕事」と呼んでいたのが、蘇武橋地区だった。
飛鳥時代に聖徳太子が斑鳩の宮から筋違道を経て、蘇武橋を渡られ橘の宮に通われて甲斐の国司秦河勝が献上した愛馬の黒駒に水を与えられた井戸とも伝えられている「蘇武の井戸」太子伝玉林抄(たいしでんぎょくりんしょう)を復元することで、不法占拠が長年放置され、誰も手を付けられなかった「ゼロ番地」。父は行政に代わって交渉の一切を引き受け、聖徳太子ゆかりのその地を、大和三山を背景とした公園として蘇らせた。近鉄八木西口駅から今井町への玄関口として、今、その場所は美しく整備されている。
そして、飛鳥川の川辺に桜を植樹する計画。橿原ロータリークラブの委員会で父が発案したその構想は、やがて実を結んだ。

いつの日か、その桜が満開になるとき、川辺を歩く誰かが、ふと父のことを思い出してくれるかもしれない。

 

今井町にかつてあった三つの茶室——「宗久茶屋、兵部茶屋、今西家茶屋」——の復興も、父が胸に抱いたままにしていた夢だった。残されたものには、継ぐという道がある。

十九代目として、そして父の子として——今西家茶室の復元を、私はここに誓う。茶室に満ちるであろう静寂の中に、いつかきっと、父の気配を感じる日が来ると信じながら。

 


父が逝って、十年が経った。

十年一昔とは、よく言ったものだ。

しかし今井町の石畳に、称念寺の鐘の音に、飛鳥川の桜並木に、父の息吹は静かに残っている。自らの名を刻もうとせず、ただ町を愛し、町に尽くした一人の男の、見えない足跡として。