前当主 今西啓師の今井町への愛と志

expo '90 PHOTO MUSEUM
EXPO'90 花博写真美術館オープニング記念式典

幼いころから手の付けられない腕白者で今井町にご迷惑をかけてきたことをお詫び致します。

幼少時、父の学友、先輩たちは、今西家の前を通るたびに呼び止められるのが嫌でみなが避けて遠回りにもかかわらず別の道を通ったと聞いております。

また、特攻隊にあこがれ兵隊さんのまねをしては小学校の校庭で皆を集めて軍隊行進の練習を強要させたり、家宝の鎧や刀を勝手に持ち出しては、戦ごっこをして母・キヨ子を困らせてばかりいましたが、高取藩家老吉川家の娘だった曾祖母・みかだけは、気が合い味方となり陰日向となってくれたそうです。

そんな父と曾祖母は、太平洋戦争真っ只中、空襲で火災になるのを心配して、高市郡が今西家南側に建てた織田信長公陣屋跡の祠を一緒に解体して薪にしたり、大坂夏の陣での功績で幕府より拝領した薙刀を真っ二つに切断して供出を避けた思い出話をよく聞かせてくれました。

終戦後、祖父・一郎が戦争から帰還し、厳しく育てられ名門の旧制畝傍中学校(県立畝傍高校)へ入学しますが、やがてまた本性があらわれて学校のならずものになってしまいます。

そして、祖父が北海道へ開拓事業に行ってしまい、たがが外れて大阪の愚連隊へ入ってしまう始末でした。祖母・キヨ子が心配し、改心させるために身をもって修養するために、天理での寮生活を共にしました。

その甲斐があってか関西大学に進学出来ました。

教師や新聞社記者の職を転々とし30歳の時、大阪市中之島において不動産会社を興します。

母・綾子と出会い結婚し、長男の私が生まれ志賀直哉邸の隣にある奈良市高畑町に住まいを構えて、その後千里の大阪万博に関わり、それを機に近くの豊中市に引っ越ししました。

 

父が亡くなって十年。

十年一昔とは、よく言ったものです。

花博理事に任命されて写真美術館館長を務めた今は亡き父が都市調査会の京都大学奥田総長や親友で都市科学研究所の米田豊昭氏らと共に都市文化センターにおいて夢を語り、関西新空港構想を手掛け、阪急と国際文化公園都市・彩都(さいと)の都市開発に関わり、箕面市に大阪国際文化高等学校、大阪国際文化中学校 (OIA) を設立しました。現在も、関西学院大学と合併して関西学院千里国際学園として国際人の育成に励んでおります。

ただ志し半ばにして果たせなかった関西学研都市構想がよみがえらせれば未来は今よりも明るくなると信じております。

バブルが弾けず京大が京田辺に移転して、日本の頭脳を集中させて関西文化学術文化都市構想を成功させていれば、日本製のOSも夢ではなかったかもしれないです。

 

特に、今井町に対して何かを恩返ししなければならないという気持ちは、きわめて強く、それは、先祖から受け継いだ「今井町」を愛するという純粋なこころから派生したものでした。

そして、その行為は、自分がしたという顕示欲からではなく、素直な気持ちからであり、今井町において一貫して利権を一円たりとも得ることは、一切しませんでした。

まず父がやったのは、称念寺に6代目今西與次兵衞正次と弟の今西長兵衞正長が寄付した釣鐘が戦争に供出されて無くなっていたのを再興することから始めました。

次に、1845年再建の太鼓楼の傷みがひどかったので財団法人今西家保存会の積立金と橿原市の補助金で修復しました。

また、明治天皇のご行幸のために今西家南側の御堂筋を開通した際に分断された土地を明確にするために茶室のあった今西家西側(現・今井児童公園)を市に寄付し、春日神社南西部環濠跡を市に無償貸与し、都市緑化に協力し、信長と闘った今井町西側環濠の整備を実現いたしました。

元々、今西家が介立した檀那寺である称念寺は創建以来、一建立といって今西家が費用を全額捻出してきましたので、明治維新後は、補修や修復が覚束無くなっていました。

父は、将来のことも考慮して、各檀家に負担がかからないように熟慮し、懇意にしていた大蔵省花の十八年組で環境省事務次官だった船後正道氏の力添えを借りて東京大学渡邉定夫名誉教授が奔走した結果、ようやく文化庁から称念寺本堂を重要文化財の指定を受けさせることに成功させました。

それと並行して、本堂の文化財修理工事の際に本堂の前に瓦や材木の置き場を確保すべく東側の中学の同級生である藤井株式会社(メリヤス工場)の土地を橿原市に買い上げさせ、その場所に檀家の墓地を移動させました。

2010年(平成22年)4月から称念寺の解体修理に入り、称念寺本堂の落慶法要に参列することが叶いませんでしたが、何社ものゼネコンの顧問を歴任して数々の都市再興計画に携わってきた親父の最後の仕事と語っていた蘇武橋地区は、かつて父の友人であった県議会議員が不法占拠した土地で、長らく、誰もこの地区を見て見ぬ振りで何も出来なかった「ゼロ番地」を行政になりかわって交渉一切を引き受けました。

ようやく、聖徳太子ゆかりの蘇武橋地区が大和三山をバックにして公園として景観整備されました。また、父が今井町のための最後の仕事と言っていたのが、蘇武橋地域の景観整備であり、今井町に3庵あった茶室(宗久茶屋、兵部茶屋、今西家茶屋)の復興をする事でした。

現在、近鉄八木西口駅からの今井町への観光客の玄関口として、橿原市のおかけで蘇武橋地域が美しく整備され大変喜んでおりました。

そして、飛鳥川川辺に桜を植樹する計画は、橿原ロータリークラブのときに委員会で企画したものが実現しました。皆様、いつの日か桜が咲き誇る時にふと父を想い出していただければと思います。