先祖

龍王山城は北城と南城に分かれ、山城としての比高も奈良県内一である。また、奈良県内最大級で、北城だけでも信貴山城に次ぐ大きさである。しばしば、龍王山城が、越後の春日山城、安芸の郡山城とならんで、日本の三大山城だといわれるが、規模だけで比べると、これは少し誇大ないい方である。 山中には二つの龍王社がある故に、龍王山と呼ばれ、東山麓の藤井で祀られた田町龍王社と西の柳本で祀られた柳本龍王社があり、どちらの龍王社も大和川の水源である。 布留川上流にはいくつか九頭神社があり、九頭竜神を祀っている。 昔から天理周辺では、東山中の桃尾の滝のある龍福寺付近は龍王の頭で、龍王山は背中の部分にあたるという。東山の峰々を蛇行して三輪山に至る部分はその尾と伝えられている。 そして、大和盆地の青垣の山々には巨大な「龍王」が鎮座されていた。この「龍王」こそ「大龍」で、東に鎮座する「四神」の中の「青龍」 と考えることができる。

大神神社御祭神大物主命(都味歯八重事代主)の御子・伊須気余理比売命(媛蹈鞴五十鈴媛)の御住所は、狭井川のほとり、『出雲屋敷』にあったと伝えられ、狭井とは笹百合のことであり、この初夏の時期に一帯に可憐な花を咲かせる。神武東征後、伊須気余理比売命(媛蹈鞴五十鈴媛)は神武天皇皇后となられる。

孝霊天皇の御代、富士山が 噴火し、富士山がはじめて姿を現したという。 平成最後の山の日に富士山御来光を望む事が出来ました。 孝霊天皇が念願のハラミヤマ登山を行幸された折に、田子の浦人(たごのうらびと)が孝霊天皇に藤の花を捧げ、新しい山の名を織り込んだ秀歌を詠まれました。

「明わたる 天のかぐ山 そらかけて とをちの里の  梅の下風」 (群書類従 十市遠忠) 十市遠忠は、十市新左衛門遠治の子で、中原朝臣も称す。その頃、十市氏は興福寺大乗院方の衆徒であったが、父遠治の時代に所領を拡大した。 天文二年(1533)頃、遠忠が家督を継ぐと、木沢長政や筒井氏と争い、龍王山城に拠って一大勢力を築いた。官職は兵部少輔に進む。 天文十四年三月十六日、四十九歳で没。 堂上派の和歌を学び、三条西実隆、公条に師事した。詠草・自歌合・定数歌などが多く伝存し、正・続群書類従には百首歌と四種の自歌合が、私家集大成には五種の詠草が収められている。書家としても名があり、藤原定家撰の『拾遺百番歌合』『別本八代集秀逸』、宗良親王の『李花集』、藤原清輔の詠草など多くの歌書を写して後世に伝えた。 戦国の世、いくさにあいまみえながらこそ平和を望む歌が多い。 ・「十市遠忠百首」 続群書類従394(第十四輯下) ・「十市遠忠百番自歌合」 続群書類従417(第十五輯下) ・「十市遠忠三十六番自歌合」 群書類従222(第十三輯) ・「十市遠忠五十番自歌合」 続群書類従416(第十五輯下)