十市備後守 護衛せり、大和経由 神君家康 「伊賀越え」
徳川家康は、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の一報を堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった一行に、茶屋四郎次郎によって届けられ、長谷川秀一が案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。先ず第一に大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導いた。その後、これも秀一旧知の近江信楽の代官である多羅尾光俊(山口秀景の婿養子である山口光広の実父)の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱したとある。 伊賀越えについてはさまざまな記録や伝承がありますが、通説は石川忠総(1582~1651)が書いた『石川忠総留書』の記述に沿っていますが、どこから船に乗ったのかなど経路の情報が錯綜している点や、わずか34名の随行だったと説く点も、『石川忠総留書』から離れて、再検証の必要があります。
公益財団法人十市県主今西家保存会所有 今西家五軒長屋再生案
かつて今井町は、天文年間(1532~55)、一向宗念仏道場(現・称念寺)を中心に形成された寺内町で、かつて織田信長軍と戦って武装解除されてから後は自治都市として発展をした東西600㍍、南北310㍍の町全体が日本で一番多くの伝統建造物が残っている国の重要伝統的建造物群保存地区となっていますが、ヨーロッパでの価値が高くユネスコも当初世界遺産になってくれないかと示唆した経緯がありました。 今回、公益財団法人 十市県主今西家保存会所有の空き家となっている今西家住宅五軒長屋再生案を協議し、国際コンペ運営企画案を作成して東京大学先端科学技術研究センター長・東京大学副学長を歴任された西村幸夫國學院大學観光まちづくり学部初代学部長を渋谷キャンパス若木タワーへ相談に参りました。西村幸夫博士に「路地を隔て空き家となっている今西家五軒長屋と向かいの城野さんの三軒長屋を先駆けて再生する事によってモデルデザインを創り、重伝都市今井町から奏でる町並みというハーモニーの調和をはかれれば後世にかけがえのない遺産をのこせる。建築家にとってこれにすぐる冥利はないでしょう。」とお話ししていただきました。

読売新聞 日曜版よみほっと 旅を旅して4月21日に掲載
自治都市の誇り 息づく…今井町(奈良県橿原〈かしはら〉市) この建物は、人々の間に自由な精神があふれている時代に建てられたにちがいないと、私は感じていた。――伊藤ていじ「民家に学ぶ」(1982年)  「伊藤先生に『発見』してもらって、おばあちゃんには救世主に見えたかもしれませんね」  今西家18代目当主、今西 啓仁さん(64)は祖母キヨ子さんの気持ちを推し量る。夫は仕事で北海道に長く滞在し、傾いた家に息子と住んでいた。「先生は今西家を民家の国宝第1号にしたいとおっしゃっていました」  東大による学術調査で、今井は中世の街割りに江戸期以降の民家が残る町として注目された。室町時代に本願寺の門徒が 環濠と土居で守る寺内町を形成。織田信長に降伏後は自治都市として栄え、「海の堺、陸の今井」と称された。今西家は 惣そう年どし寄より の一つとして裁判権も与えられ、広い土間はお白洲として使われた。民家の価値と保存の意義を説いた建築史家と、町との縁は終生続いた。父・ 啓師さんの口癖は「今井町の志」だったという。自治都市の誇りは、町と人々の中に生きていた。
称念寺 落慶法要
2023年(令和5年)11月27日、称念寺落慶法要に今井慶子住職に来賓として招待され、冥途にいる亡父の代理で臨席させていただきました。 生前お祖母ちゃんは、称念寺の修理について後々遺恨が出ない様に檀家総代に任せておくべきだと反対しましたが、「儂がやら無いと先祖に申し訳がたたない。今西家としての志が立たない!」と怒っていたのを記憶しております。

媛蹈鞴五十鈴媛命 (伊須気余理比売)
【辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位】 於橿原宮ー『日本書紀』卷第三、神武紀 神武東征の目的地である磯城邑を治めていた磯城彦の兄磯城師(えしきたける)とその兵である磯城の八十梟帥(やそたける)は滅され、皇軍(みいくさ)に協力した弟磯城黒速(おしきくろはや)に論功行賞として磯城県主(しきのあがたぬし)の称号が与えられた(日本書紀神武天皇即位前期 戊午年十一月己巳条)。 神武天皇は、兄磯城軍の磯城八十梟師が兵を結集していた磯城邑の片居(亦の名を片立。 旧十市郡安倍村大字池之内及び香久山村大字池尻付近と推定)を磐余(いわれ)と名付け、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)と称した(日本書紀神武天皇二年二月乙巳条)。
今井町 称念寺 落慶法要
今井町は信長包囲網の一環として一向宗に呼応して今井道場(後の称念寺)を中心にして環濠集落を整備し城塞都市化した歴史があって、倒壊寸前の称念寺を再興しなければ今井町の先人たち特に今西家の先祖に顔向けが出来ないという思いが 17代目今西啓師は並々ならぬ程確固たるものでした。 (寛永十三)1637年、6代目今西與次兵衞正次と弟の今西長兵衞正長が亡き父正冬(河合権兵衛清長)三回忌法要の供養として稱念寺へ寄贈した釣鐘が太平洋戦争の金属類回収令により供出されて無かったので、(昭和三十八)1963年に新たに釣鐘を新鋳し、再び寄贈することが叶いました。 また、(弘化二)1845年再建の稱念寺太鼓楼を財団法人今西家保存会 稱念寺太鼓楼修復積立金と橿原市の補助金によって、(平成八)1996年7月27日に尾田組が竣工しました。 ようやく、念願の称念寺本堂落慶法要を迎えることができました。 #河合権兵衛清長 #釣鐘 #金属類回収令 #称念寺 #今西輿次兵衛 #今井町 #寄進 #太鼓楼

エリザベス女王陛下国葬にあたり
エリザベス2世女王に神のご加護を!ご冥福を心よりお祈りいたします。 チャールズ三世国王万歳! BBC放送日本総責任者で天理大学柔道部初代師範松本安市の弟子故ジョン・ニューマンは、チャールズ三世国王と親しくマウントバッテン海軍元帥の影響で反日感情をお持ちであった国王の来日の際に武道家で最も古い豪族の家系である亡き父に引き会わせて日本の魂に少しでも触れていただけるように配慮しました。 また後日、父の訪英の時にも公邸に来訪が出来るように手配していただきました。 写真はチャールズ皇太子来日時のもので、チャールズ新国王陛下と握手しているのが、父です。
松永久秀と今井郷
中世十市氏は十市遠忠の頃が最盛期で、嫡男十市遠勝の代になると、筒井順慶と松永久秀の激しい戦いに翻弄され、娘のおなへは久秀に人質として差し出され、のちに嫡男松永久通の妻となりました。 織田信長が入京し、久秀が信長の力を背景に力を取り戻して、龍王山城が十市氏の手に戻り、おなへを旗印とする河合権兵衛清長(後改め今西正冬)以下松永派が筒井派を抑え込みました。 やがて、松永久秀が信長を裏切り、筒井順慶の巻き返しがおこり、十市城を攻略され(永禄九)1566年十市遠勝、御内、おなへ一族郎党と共に松永派は今井の河合権兵衛居宅(現:今西家住宅)へ退去しました。十市家やその一族である河合家のことが「多聞院日記」にしばしば登場し、筆者である多聞院長実房英俊は、十市御内を心配してみやげを持参して今井へ見舞っています。

越智氏と今井庄
平安時代、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれるのに対し壺阪寺は南法華寺と呼ばれ栄えた。越智氏の滅亡とともに壷阪寺も衰退していくが、豊臣秀長の家来 本多利久が高取城主となり、庇護を受け復興していった。 高取山(584m)の山上に、元弘2年(1332)越智邦澄が築いた山城が高取城(国・史跡)でその西側ふもとにある。 越智氏は、十市氏と縁戚関係で共に大和士(やまとざむらい)であり、興福寺の荘園を管理していた。南北朝時代には、南朝方武士の中心勢力であった越智氏と、北朝方武士の中心勢力であった筒井氏が大和国で主導的地位を確立し、以後の大和国の抗争はこの両氏を中心にして動いていく。南朝方武士であった十市遠康と叔父で廣瀬大社へ婿養子となり河合城を築いた河合遠正が後醍醐天皇を吉野へ見送った。 ※ 大和士とは、衆徒国人たちで、十市氏を首領とする長谷川党(式下・式上郡)、箸尾氏を首領とする長川党(葛下・広瀬郡)、筒井氏を首領とする戌亥脇党(添下・平群郡)、楢原氏を中心とした南党(葛上郡)、越智氏を中心とした散在党(高市郡)、平田党の六党をいい、特に、越智・十市・箸尾・筒井の四氏が「大和四家」と呼ばれる。
木への感謝を漆器にそえて
十市県主今西家保存会は、吉野の山林の恩恵を受けた世界に誇るべき建造物群保存地区である「今井町」の木造建築の住空間「重要文化財今西家住宅」において四季折々の調度品をあしらって、季節ごとに題目を提案して旬の素材を漆器「膳腕」によそおい作法に囚われることなく「和」の食空間と文化(和をもって貴しと為す→おもてなし)を企画していこうと考えております。 天下三宗匠のひとり「今井宗久」のゆかりの地である今井町から自由で万人が和み得る空間を創出し、海外のひとからも受け入れられる文化的な体験事業を展開するために重要文化財今西家住宅を積極的に有効活用していきます。

さらに表示する