孝霊天皇の御代、富士山が 噴火し、富士山がはじめて姿を現したという。 平成最後の山の日に富士山御来光を望む事が出来ました。 孝霊天皇が念願のハラミヤマ登山を行幸された折に、田子の浦人(たごのうらびと)が孝霊天皇に藤の花を捧げ、新しい山の名を織り込んだ秀歌を詠まれました。

東大寺・春日大社・興福寺など寺社建築の建立修復を手掛けてきた「建築工の匠」奈良の尾田組の伝統建築技術によって現代版の今西家を再現すべく、桜井の西垣林業が春日杉や吉野材をそろえ、生駒の山本瓦工業が瓦を葺き、内装は大丸木工部が担当して新築されるに至った。上棟式の日、尾田組宮大工棟梁とうりょうがてっぺんに登り、棟木に掛矢かけや を打ち下ろした途端、大黒柱と梁はりが音をたてて組みはめ込められた。それは、忘れることのできない光景で神聖な音が腹に響く、儀式であった。

江戸時代の大和には、多数の名産品が存在しました。 奈良盆地での稲作は、畑や田地でも盛んに行なわれていましたが、木綿が高収益を期待できる商品作物として、稲と競合するように作付けされるようになり操綿屋が盛んになりました。 また、盛衰してしまった奈良晒(ざらし)は、越後上布に勝るとも劣らない最上の麻製品で南都随一の産業となりました。 奈良町を中心に織り出され加工された高級麻織物は、江戸幕府の御用品にも指定されて統制と保護が加えられるほど栄華を極めました。武士や富裕な町人の裃などの礼服や夏向きの衣料として重宝されていました。

座右の銘である「承前啓後」について覚書を記す。啓はひらくとも読み、私の名前の一字です。 (1)過去をうけて未来を開く。 (2)上文を受けて下文を発展させる。 (3)前人の経験成果を受け継ぎ,新しいものを創造する(多くは学問や事業などについていう)。 中国の福建省永定県高頭郷に『承啓樓』《明末崇禎年間(1628~1644)に起工され、康煕四十八年(1709)にようやく完成したという、「江」一族の土樓。》があります。その碑に、 承前祖徳勤和儉  啓後孫謀讀與耕 [書き下し] 承前(しょうぜん)の祖徳(そとく)は勤(きん)和(と)儉(けん)。 啓後(けいご)の孫謀(そんぼう)は讀(どく)與(と)耕(こう)。[訳] 受け継いでいく祖先の徳は、家族円満にして共に助け合うことであり、他人を思いやる心がけと勤勉と倹約だ。 発展させる子孫の行いは、晴耕雨読だ。

封建時代、今井は独立したガバナンスで「自治都市」を展開すると共に総合商社の先駆けを展開していました。 そのバックボーンとなったのは、吉野の山林における豊富な木材資源であり、堺との流通網から国内外の物流と情報が集まったことにあります。 高度経済成長期、日本の民家および古い町並みは、古臭いだとか汚くて暗いなどと非難をされてきましたが、古い町並みと自然と共存する農漁村が見直され、町並み散歩とエコツーリングが若者や年金受給者を中心に脚光を浴びました。また、アレルギーによるシックハウスが問題になり、木造と漆喰による自然素材で造る家屋の見本としての古い民家から学ぼうとする機運が深まってきました。

「明わたる 天のかぐ山 そらかけて とをちの里の  梅の下風」 (群書類従 十市遠忠) 十市遠忠は、十市新左衛門遠治の子で、中原朝臣も称す。その頃、十市氏は興福寺大乗院方の衆徒であったが、父遠治の時代に所領を拡大した。 天文二年(1533)頃、遠忠が家督を継ぐと、木沢長政や筒井氏と争い、龍王山城に拠って一大勢力を築いた。官職は兵部少輔に進む。 天文十四年三月十六日、四十九歳で没。 堂上派の和歌を学び、三条西実隆、公条に師事した。詠草・自歌合・定数歌などが多く伝存し、正・続群書類従には百首歌と四種の自歌合が、私家集大成には五種の詠草が収められている。書家としても名があり、藤原定家撰の『拾遺百番歌合』『別本八代集秀逸』、宗良親王の『李花集』、藤原清輔の詠草など多くの歌書を写して後世に伝えた。 戦国の世、いくさにあいまみえながらこそ平和を望む歌が多い。 ・「十市遠忠百首」 続群書類従394(第十四輯下) ・「十市遠忠百番自歌合」 続群書類従417(第十五輯下) ・「十市遠忠三十六番自歌合」 群書類従222(第十三輯) ・「十市遠忠五十番自歌合」 続群書類従416(第十五輯下)

重要文化財今西家住宅にて、20(日)まで華倭里さんの行燈と奥田表具店さんの岡本太郎特別賞受賞の新進気鋭の小松原智史氏の表具屏風を展示中。 吉野山の葛御菓子TSUJIMURAさんの葛菓子も販売されています。 今井町重要文化財今西家住宅へは、近鉄橿原線八木西口駅下車徒歩5分、JR西日本万葉まほろば線畝傍駅下車徒歩15分、自動車は南阪奈道路から高田バイパス寺田ランプで降り、五井町交差点を越えて次を右折し、正面が今西家住宅。駐車場は橿原市営「今井町交通広場駐車場」明日まで無料。

5月12日〜5月20日町かどアート ・町の幻想・屏風・ あかり展開催中 ※入館料(大人400円、中学生以下200円)(重要文化財 今西家住宅)

幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により今井町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。 しかし依然、今井町は南大和の中心地であり、明治初年には奈良県出張所が置かれた。奈良県再設置問題がおこった時もその庁舎の位置について現在の奈良市を外し、今井町に設置しようとする有力な動きがあったが、実現しなかった。 また、明治時代の鉄道開通の際、今井町の市中取り締まりの任にあった今西正巌逸郎が近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対したことから、むしろ都市化を免れることができ、町の保存に貢献できたと言えます。 隣町の八木町で設置されて畝傍駅として開業しました。 奈良県下の鉄道は明治23年に奈良~大阪間が開通し、明治26年に王寺~桜井間が通じました。 天皇家の畝傍御陵参拝のためにつくられました。