美保神社
美保神社ご参拝 天孫降臨に先だち天つ神の使の神が出雲にお降りになって大國主神にこの國を天つ神に献れとお傳へになった時、事代主神はたまたまこの美保碕で釣魚をしておいでなされたが、父神のお尋ねに対し、畏しこの國は天つ神の御子に奉り給へと奉答せられ、海中に青柴垣(あをふしがき)をお作りになり、天逆手(あめのむかへで)を拍っておこもりになり、大國主神はそのお言葉通り國土を御奉献になったと傳へてゐる。かくて事代主神は多くの神神を帥ゐて皇孫を奉護し我國の建國に貢献あそばされた。又神武天皇綏靖天皇安寧天皇三代の皇后はその御子孫の姫神で、國初皇統外戚第一の神にあたらせられ、なほ古来宮中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。 原文に「青柴垣打成」とあるが、打つは拍手に掛からず、手を打つとは手段をとるという意味で青垣とは、倭之青垣を差し御諸山(三輪山)に移ることを暗示している。 #天孫降臨 #大国主 #事代主 #青柴垣 #天逆手 #媛蹈鞴五十鈴媛命 #天日方奇日方命

樂樂福神社
十市県主今西家は、縄文時代後半(約4000年前)に纒向川と初瀬川に囲まれた磯城嶋において、出雲神を祀った先住氏族で、磯城邑しきむら(磯城、十市両郡地方)首長の磯城彦兄弟の弟磯城黒速の子孫であると伝わる(神武即位前紀戊午年9月戊辰条・古事記神武段)が、(弘仁六)815年に編纂された古代研究の基礎史料である新撰姓氏録において、十市県主と同族の中原系図に十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載している。 古事記においての第七代孝霊天皇皇后の十市県主の祖大目の娘細比売命くわしひめのみことの表記名が、日本書紀では磯城県主大目の娘の細媛命と記されていることから十市県主は磯城県主と同一氏族であることがわかる。

社会貢献実現のための収益事業
公益法人にとっての収益事業には、法人のメインである公益事業にかかる費用を収益事業の収益でまかなうというミッションがあります。 民間の株式会社のように利益をあげることだけが目標ではなく、その利益を社会教育福祉に還元できることが本法人の事業形態の大きな特徴となっています。

徳政令=債務破棄という名のラストデイ
幕末四賢候の一人で16代越前福井藩主の松平春嶽公自からが今西家へ赴いて拝領された笏谷石(しゃくだにいし)の流し台があります。 水に濡れると深い青色に変化することから別名「青石」とも呼ばれていますが、重量が軽いです。 今西家と姻戚の材木商や金融業を幅広く営んでいた今井町随一の豪商であった牧村家は、利休七哲 (蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、芝山監物、瀬田掃部、高山右近、牧村兵部)のひとり伊勢岩手藩主の牧村利貞が牧村家初代と伝わり、その孫が今井へ移住し、代々材木商を営みました。 幕末期には松平春嶽に貸し付けを行い福井藩蔵元を務めていましたが、明治維新後の徳政令によって大名貸の貸付金が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかったのは、世は世といえ悔やんでも悔やみきれません。

今西家 正月
今西家は戦国時代からお正月の三が日は神棚、仏前に一日2回お参りするのが慣習になっています。 神棚には、神饌として米・酒・塩・水の他に鏡餅、お雑煮をお供えし、榊の代わりに松竹梅を飾り付けします。 仏前には、御仏飯の代わりにお雑煮をお供えし、お花は松竹梅を飾り付けします。 夕方には、炊きたての御飯をお供えします。 そして、三が日の最後の御飯をお供えして、早々と鏡開きをします。 今西家は自治権を幕府から委ねられ役所と裁判所、警察署を兼ねていましたので1月4日から仕事始めになっていたからです。 永禄9年(1566年)、十市から今井に移住して以来今も古来の仕来りを連綿と守っております。 神仏の御加護そしてご先祖のお蔭で、今井へ移り住んで455回目の正月を迎える事が出来ました。 感謝

春日若宮おん祭は毎年7月1日の流鏑馬定(やぶさめさだめ)によって始まり、その年の流鏑馬頭(願主人)を定める儀式で、大和士(やまとざむらい)といわれる衆徒国人たちが交代で願主人を務めた。 おん祭りがはじめられた当初から、大和士によって流鏑馬十騎が奉納されてきた。大和士とは、十市氏を首領とする長谷川党(式下・式上郡)、箸尾氏を首領とする長川党(葛下・広瀬郡)、筒井氏を首領とする戌亥脇党(添下・平群郡)、楢原氏を中心とした南党(葛上郡)、越智氏を中心とした散在党(高市郡)、平田党の六党をいう。 しばしば、流鏑馬の順番をめぐって筒井氏と十市氏が刃傷沙汰(にんじょうざた)をおこし、興福寺別当が頭を悩ましたようであるが、争いを避ける方法として稚児を流鏑馬に登用して、武士のメンツを立てて解決したのである。

(明智光秀 今井郷中宛書状) 端書無之   當在所事、去年任被仰出旨、土居構崩之、國次准土民由、尤神妙候、其段弥於無相違者、重而違乱族不可有之候、陣取等堅可令停止、宗及別而断之条、自今以後不可有疎意候、猶□□□藤田傳五□□□恐々謹言、 天正□九月廿七日  惟任光秀(花押)  「 (加筆) 河瀬兵部房殿」 今井郷惣中 (天正三)1575年、石山合戦に呼応し、織田信長の降伏勧告を拒絶した国衆(十市家、河合家一族郎党)を中心とした今井郷民や長島一向一揆の残党などの門徒衆が挙兵し、明智光秀配属の筒井順慶率いる織田軍勢と半年あまり戦った。そして同年10月、一向宗率いる顕如上人が信長に和睦を求めたため戦う大義を無くし、三好家と懇意にしていた光秀の茶の師である津田宗及の斡旋によって土居構えなどの防御施設を崩し、武装を放棄することの条件を受け入れ今井郷に赦免状(橿原市指定文化財)が与えられ信長と和した。以後、本願寺とは一線を画くした。 ※ 永禄11年(1568年)3月12日、河合清長(今西正冬)が今井の居宅で一族の十市遠勝と三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わす。(多聞院日記)

春日大社の花山院弘匡宮司に当家へご来訪いただきました。 花山院宮司は、藤原道長公の末裔で花山院家の第33代当主にあたられます。 また、今西家の旧宅地内に藤原家ゆかりの春日神社と天台宗多武峯妙楽寺末寺の常福寺がありますが、今西家5代目当主である今西正冬が1613年に祀り造営したものでお参りいただきました。 境内には10代目当主今西栄正が建立した今井町内の子供が元気に育つようにと願った供養搭もあります。 奈良は京都に遷都されてから興福寺が治めており、他の諸国では幕府によって守護や地頭がおかれましたが、鎌倉幕府もあえて大和には守護を赴任させずにおきました。 室町時代になると、十市氏を首領とする長谷川党、箸尾氏の長川党、筒井氏の戌亥脇党、楢原氏の南党、越智氏の散在党、平田党の六党が割拠し、中でも筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏が「大和四家」と呼ばれ勢力を誇って大和各地の荘園を管理していました。

16世紀になると、堺と今井にかかわりが深い会合衆、町衆たち「天下三宗匠(千利休、津田宗及、今井宗久)」らは、茶数寄に徹するからといえ、家業を捨てて山中に遁れる訳にゆかず、茶の湯を愉しむひと時だけを遁世するために権力者の建物ではなく民家に彼らの道統の原形が在るととらえ、それを研ぎ澄まして茶室という結晶体にまで極めました。 風変わりでなく、立派でなく、垢抜けしているが、目立たない。こうした謙虚なたたずまいを茶室の理想としました。 それゆえに、茶室と露地は浮世の外の「市中の山居」でなければならず、手水で心身を清め、白露地を歩み、にじり口には掛け金を下して俗界と遮断する必要がありました。露地のことを白露地というのは、白とは清浄の意味であり、浄土をあらわします。

龍王山城は北城と南城に分かれ、山城としての比高も奈良県内一である。また、奈良県内最大級で、北城だけでも信貴山城に次ぐ大きさである。しばしば、龍王山城が、越後の春日山城、安芸の郡山城とならんで、日本の三大山城だといわれるが、規模だけで比べると、これは少し誇大ないい方である。 山中には二つの龍王社がある故に、龍王山と呼ばれ、東山麓の藤井で祀られた田町龍王社と西の柳本で祀られた柳本龍王社があり、どちらの龍王社も大和川の水源である。 布留川上流にはいくつか九頭神社があり、九頭竜神を祀っている。 昔から天理周辺では、東山中の桃尾の滝のある龍福寺付近は龍王の頭で、龍王山は背中の部分にあたるという。東山の峰々を蛇行して三輪山に至る部分はその尾と伝えられている。 そして、大和盆地の青垣の山々には巨大な「龍王」が鎮座されていた。この「龍王」こそ「大龍」で、東に鎮座する「四神」の中の「青龍」 と考えることができる。

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