今井町の歴史

(明智光秀 今井郷中宛書状) 端書無之   當在所事、去年任被仰出旨、土居構崩之、國次准土民由、尤神妙候、其段弥於無相違者、重而違乱族不可有之候、陣取等堅可令停止、宗及別而断之条、自今以後不可有疎意候、猶□□□藤田傳五□□□恐々謹言、 天正□九月廿七日  惟任光秀(花押)  「 (加筆) 河瀬兵部房殿」 今井郷惣中 (天正三)1575年、石山合戦に呼応し、織田信長の降伏勧告を拒絶した国衆(十市家、河合家一族郎党)を中心とした今井郷民や長島一向一揆の残党などの門徒衆が挙兵し、明智光秀配属の筒井順慶率いる織田軍勢と半年あまり戦った。そして同年10月、一向宗率いる顕如上人が信長に和睦を求めたため戦う大義を無くし、三好家と懇意にしていた光秀の茶の師である津田宗及の斡旋によって土居構えなどの防御施設を崩し、武装を放棄することの条件を受け入れ今井郷に赦免状(橿原市指定文化財)が与えられ信長と和した。以後、本願寺とは一線を画くした。 ※ 永禄11年(1568年)3月12日、河合清長(今西正冬)が今井の居宅で一族の十市遠勝と三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わす。(多聞院日記)

織田信長の再三再四の降伏勧告を断固拒否して、(天正三)1575年、石山合戦に呼応し、在郷武士団(十市家、河合家一族郎党)と長島一向一揆の牢人などの今井郷民が挙兵し、明智光秀配属の筒井順慶率いる織田軍勢と半年あまり戦った。しかし、一向宗率いる顕如上人が信長に和睦を求めたため戦闘の大義を無くし、一貫して今井宗久は静観を貫いたので堺の天下三宗匠のひとり津田宗及の斡旋によって今井郷宛ての朱印状(橿原市指定文化財)が与えられ信長と和した。以後、本願寺と袂を分かち、寺内町から自治都市となった今井町にとって歴史が変わった転換期であった。