平安時代、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれるのに対し壺阪寺は南法華寺と呼ばれ栄えた。越智氏の滅亡とともに壷阪寺も衰退していくが、豊臣秀長の家来 本多利久が高取城主となり、庇護を受け復興していった。
高取山(584m)の山上に、元弘2年(1332)越智邦澄が築いた山城が高取城(国・史跡)でその西側ふもとにある。
越智氏は、十市氏と縁戚関係で共に大和士(やまとざむらい)であり、興福寺の荘園を管理していた。南北朝時代には、南朝方武士の中心勢力であった越智氏と、北朝方武士の中心勢力であった筒井氏が大和国で主導的地位を確立し、以後の大和国の抗争はこの両氏を中心にして動いていく。南朝方武士であった十市遠康と叔父で廣瀬大社へ婿養子となり河合城を築いた河合遠正が後醍醐天皇を吉野へ見送った。
※ 大和士とは、衆徒国人たちで、十市氏を首領とする長谷川党(式下・式上郡)、箸尾氏を首領とする長川党(葛下・広瀬郡)、筒井氏を首領とする戌亥脇党(添下・平群郡)、楢原氏を中心とした南党(葛上郡)、越智氏を中心とした散在党(高市郡)、平田党の六党をいい、特に、越智・十市・箸尾・筒井の四氏が「大和四家」と呼ばれる。